目が覚めたのは、翌日の昼になってからだった。
隣にあるはずの温もりがそこにはない。
重い瞼を開き、身を起こそうとして、唐突に襲う身体の痛みに顔をしかめる。
熱を持つように腫れるそこの痛みと全身の倦怠感が、昨夜の行為が現実であったことを知らしめていた。
気を失うように眠ってしまった後、橘が体を拭いてくれたらしく、シ―ツも真新しいものに変えられているようだ。何度も放った自身の白濁も汗もすべて清められていた。
「・・橘・・?」
人の気配はなかった。隣に手を滑らせてみてもそこに温もりは感じられない。おそらく、だいぶ前に出ていったのだろう。
一体どこに・・?
来月にはもういなくなってしまうというのに、初めて二人で迎える朝にお前は隣にいてくれないのか・・。
そう思うと、眼の奥が熱く痛んだ。
意識を失う直前聞こえてきた言葉は、自分に都合のいい夢だったのだろうか。
それを問うことすら、俺にはできないのか。
橘はそのまま、俺の前に現れなかった。
家に帰り、翌朝いつものように学校へ向かい、塾へと足を運ぶ。
体は軋むように痛んだが、それ以上に胸の奥が苦しくてたまらなかった。
―――――会いたい。
無理をしてでも、橘に会いたいがために向かった塾で、俺は再び目の前が真っ暗になった。
「橘なら辞めたぞ。なんでも急にイギリスへ向かうことになったとかでな」
「―――!!」
「予定が早まったと、橘の親から連絡があったんだよ」
奈落の底に突き落とされたとは、こういう気分なのだろうか。
衝撃的な事実に、茫然とする。
「これでお前は首席を取り戻せるな」という皮肉や「橘は残念だがあれほど優秀なら留学して海外の大学を目指すほうがいいだろう」とか、塾講師が言葉を並べているようだったが、俺の耳にはもう届かなかった。
―――俺は今度こそ、捨てられたのか。
あれほど愛し合い、一つに解け合えたと、満たされていると感じられたのに。それは俺だけの思い過ごしだったのか。
胸が、軋む。
後腔に橘の存在を今でも感じられるのに、身体が覚えたその熱さも、その愛しさも、苦しいほど胸を締め付ける。
二度も、同じ男に去られるとは、ひどい話だ。
不意に笑いがこみ上げてきた。
惚れた弱みというやつか、情けないことにそれでも俺は、橘を愛しているのだ。
何度手を離されようとも、俺は性懲りもなく橘を求め、きっとまた愛してしまう。
それだけは、はっきりと言える。
そして橘も、俺を愛してくれた。昔の俺も、今の俺も。
だったら俺は、また前を向いていればいい。いつか、橘が再び目の前に現れたときに、顔をあげていられるように。
今度は憎しみに逃げることなく、愛する人の隣に並べるように、しゃんと顔をあげていればいい。
今、俺を作っているすべての仮面を利用して、強く、強かに。
――――それが、今の俺なのだから。
その後の模試では、橘のように満点は無理でも首席は取り戻した。
例の因縁をつけてきた高木とほかの塾生達は、そんな俺に近づいてくることもなく、目を合わせようとしても気まずそうに視線を逸らしている。
どうやら先日の脅しと、橘の冷ややかな視線が彼らの熱をも冷ましてしまったようだ。
それでいい。もしまた絡んでくるようなら、今度は遠慮なく正面から吹っ飛ばしてやる覚悟だ。
「お前達のカツ上げの証拠は押さえた。バラされて停学処分を受けたくなければ、言うことを聞け。」
放課後の学校で、手に掲げた写真を青ざめる連中の前でバラバラとばら撒いてみせる。
最近被害が増えていたカツ上げの現場を捉えた証拠写真。
三年のグル―プが起こしたものだという証拠を裏から手を回して入手したのだ。
「それがイヤなら、取り返してみせるんだな。」
三年生にとって高校受験が近い今、このようなネタは非常によろしくない。しかもこいつらはただの不良グル―プではなく、それなりに有名私立高校を狙っているような生徒だったのだ。
受験のストレスからか、下級生から金をむしりとり、その金で豪遊する。まったく許しがたい行いだ。
「きっ、きたね―真似しやがってっ!!」
一人の血気盛んな男子が殴りかかってきたのを見届けてから、その鳩尾に少々手荒く一発お見舞いする。
「手をあげたのはそっちからだ。正当防衛。いや、俺たち執行部にはそんな理由も必要ないが、これで堂々とやり返せるな。」
隣の相方に笑みを見せると、少々呆れたような笑みを返される。けれどもどこかその表情は楽しげにも見える。
連中を叩きのめし、二度目はないと思えと丁寧に忠告してから、写真もきっちり回収する。
保険は持っていて損はない。
「なんだか、・・・開き直り?」
開いているのかいないのか分からないような細目で、すべてを見透かしたようなことを言う誠人に、俺は苦笑いで返した。
まったく、この男には敵わない。
「・・誠人、仮面を外す場所は必要だと言ったな。」
ふと、思い立って誠人に尋ねた。
「ん?・・・ああ、そうだっけ。」
「俺もそう思うよ。誰であっても、確かにそれは必要だと思う。現に今、俺にとって唯一の存在が、俺に前を向けさせてくれている。・・たとえ一緒にいれなくとも、想う人がどこかで存在している限り、俺は顔をあげていられると思うんだ。」
「・・・唯一の存在、ねぇ・・」
表情は変わらず、ぼんやりと空をみる相方に、それでも悠然と笑ってみせる。
「ああ。お前には必要ないのかもしれないが、分からんぞ。そのうち現れるかもしれんだろう?」
「それはそれは、まぁ、気長に待ってみましょうか?」
茶化すように笑って、手慣れた様子で煙草に火をつける。何かをごまかすように空気を変える手法も、この男の仮面の一つだ。
それでもいいのだ。俺と同じように、きっとこの男も、虚勢も余裕もすべてはぎ取られるほどに、身も心も奪われるような相手が、きっと現れるはずだ。
きっと、いつか。
それから俺は、有名私立のA判定を受けながらも、通う中学の高等部である、荒磯高校へ進むことに決めた。
荒磯は決して有名高校とは呼べないが、レベルが低いわけでもない。偏差値はクラスによってピンキリで、中学同様自由な校風が魅力的だ。
教育熱心だった父親も、様々な確執を乗り越えたせいか、俺の決定に反対はしなかった。
「お前の自由にするといい。どんな決定でも応援する」と父親らしい顔をみせてくれた。
その胸の内で、激しいほどの恋情を持っているだろうことは追求せず、素直に親に甘えてみることにした。
荒磯に進むのにはほかにも理由がある。元々エスカレ―タ―式だった荒磯中、高等部は、今では進級の試験が課せられてはいるが、編入するよりもよほど簡単に上がることができる。
つまり荒くれ者の集まりだった中等部から、そいつらが高等部に進むことは難しいことではなかった。
中等部では誠人と二人で、かなりの悪増たちを権勢してきたのだが、そいつらが高等部で再びハメをはずすのを黙認するのもどうだろうと、そんな正義感が働いた。
高等部へ進み、再び生徒会執行部に所属しよう。そう相方に持ちかけたのは、ほかならぬ自分だった。
誠人は珍しく苦い顔をして、さも嫌そうに「え―」とぼやいていたのだが、結局ほかへの受験が面倒くさいのか、渋々了承したというわけだ。
そして時は流れ、荒磯高等学校の入学式。
俺にとって、また新たなタ―ニングポイントは、突然訪れようとしている。・・・あの日、橘が俺の背に5年ぶりに声をかけてきたように。
『これより入学式を行います。新入生のみなさまは・・』
アナウンスに従って腰をあげる。隣の相方につきあって裏の芝生で腰を下ろしていたのだが、誠人は寝ころんで煙草を銜えたまま動こうとしない。どうやら入学式早々フケる気らしい。だが、それを咎めるほど俺も潔癖ではない。
「明日からちゃんと授業には出席しろよ」
「ほ―い」
のんびりとした声で手をひらひらと振る相手に、いつもの苦笑で返して一人、体育館へと向かった。
薄紅色の無数の欠片が、日の光を浴びてひらひらと舞い散るなか、真新しい学ランに身を包んで校舎を眺める。
―――――橘、俺はまた一つ年を重ねて高校生になった。
お前が俺の手を離れて5年、ほんの数ヶ月再会した後、再び俺の元を去って、もう一年が経とうとしている。
今の俺はこの一年でより成長できたのだろうか。
相方には開き直りだとからかわれたが、それでも今まっすぐに前を向いてこれて、良かったと思っている。
お前は、今の俺を、また褒めてくれるだろうか・・?
『格好よくて、惚れ直しそうですよ。』
また、そう言って微笑んでくれるだろうか。
そんなことを考えて、頬を緩めていた、そのとき―――。
” 隆久
”
そう呼ばれた気がして、ビクリと体を震わせ足を止めた。
・・・・・・幻聴か?
それでも確認せずにはいられない。講堂へ向かう大勢の生徒の中を見回し、注意深く、その人を探
す。
「隆久」
視線がその男を見つけたとき、今度ははっきりと呼びかけられた。
目を瞠り、言葉を失い、ただじっと、見つめる。
そこには、ずっと待ち望んでいた人物がいた。
講堂へ向かう波とは逆に、こちらにゆっくりと歩を進める一人の美しい男は、周囲が奇怪な目を向けるのにも構わず、まっすぐにこちらへ向かってくる。
忘れることなどできるはずもない、愛しい、ただ一人の人。
一年前よりもさらに背を伸ばし、知的な眼鏡の奥に優しげに細めた瞳。その奥に小さな深淵を確かに感じながら、目の前にいるのは・・・・。
「橘・・・。これは、夢、か?」
「夢では、僕も困りますよ。ようやく貴方に会えたというのに。」
くすりと微笑む顔は、少し意地悪く、俺のよく知る顔だった。憎らしいほどに、美しい微笑み。
「なぜ、ここに・・?」
「お待たせしてすみませんでした。けれどようやく戻ってこれたんです。」
質問の答えに、なっていない。ようやく戻ってこれた、それは目の前にいるのだから分かっている。
問題はなぜ、俺と同じ制服を――荒磯の制服を着ているのだということ。
するとそんな思いが伝わったのかいないのか、橘はにっこりと微笑んで言った。
「信じて待っていてほしいと、言ったでしょう?」
――――信じて、待って・・?
その言葉で、初めて抱き合ったあのとき、意識を失いかけながら、聞こえた言葉を思い出す。
『・・・これからはずっと、僕が貴方の傍にいますよ。ですから・・・、どうかそれまで、―――信じて待っていてください・・・。』
「――――!」
ああ、どうして今の今まで思い出せなかったんだろう。
橘は、今度は約束を課してくれていたのだ。再びこの腕に戻ってくるために。
「父に、一年イギリスに残る条件で日本への帰国を認めてもらいました。日本でいう義務教育の間は、傍においておきたいという親心だったのでしょう。そして僕は約束通り日本の高校に進学しました。―――この荒磯高等学校に」
胸が、苦しい。あのときのように手を離されたときのように、痛いものではなく。
胸がいっぱいで、喉がつまったように言葉が出ない。
橘なら、有名私立高校が十分狙えたはずなのに。どうしてここに。
そんな疑問は、言葉にならずに、それでも望む答えを期待している自分がいる。そして橘は口に出さずとも、答えをくれるのだ。
「貴方がここに進学すると聞いて、急いで入学の手配をとりました。約束したでしょう?これからは傍にいると。少し遅くなりましたが、僕は約束は守りますよ。」
少しいたずらっぽく微笑む顔、こんな顔を俺は知らない。
離れている間に、また知らぬところが増えてしまったのか。とそんなことを考えていると、腕を引っ張られ、温かな腕に包まれる。
「・・・泣かないでください」
「――泣いてない」
泣いてなどない。ただ、目の奥が酷く熱いだけ。
精一杯の強がりも、きっとお前の前では意味をなさないだろうが、今日から俺は高校生なのだ。
それも執行部として立派な仮面をつけて取り仕切っていくつもりだというのに、初日早々、大勢の前で醜態を晒すわけにはいかない。
それでも、俺はこの手を引き離すことなど、できなかった。
抱き止められた背に腕を回して、その存在を確認する。
今度こそ、もう二度と、離れることはないのだと。
「橘・・・」
「・・はい」
「おかえり。」
「・・ただいま帰りました。」
式が始まるまで俺達は、人目も気にせずにその温もりを感じていた。
「橘、俺は執行部に入るつもりだったが、気が変わった。」
入学式の後、教室で挨拶だけのHRを終えたあと、そのまま俺は再び橘と二人向き合っていた。
目の前には、ようやくこの手に戻ってきた、愛する人。
手の届く距離にいて、それが確かなものだと自信を持てることが、なによりも胸をじんわりと温かくする。
会いたくて、会いたくて。
その想いだけを胸に、しゃんと顔をあげてきた日々がすべて無駄ではなかったのだと、実感する瞬間。
「俺はここの生徒会本部に入る。どうせなら生徒会長としてここを取り仕切っていきたい。もちろんお前が副会長だ。」
だってほら、お前はきっと今の俺を見て、きっと俺が欲しくて欲しくて堪らなかった言葉をくれるから。
俺の唐突な言葉に、わずかに目を見開いた橘は、その後に甘ったるいほどの言葉を囁くのだ。
「―――ますます格好よくなりましたね。惚れ直しましたよ、隆久。」
見惚れるほどに、美しい微笑みとともに。
―――悪いな、誠人。
お前を引っ張っておきながら、俺はもう一足先を行くことにするよ。
かけがえのない右腕を手に入れてしまったのだから、仕方がないだろう?
だからお前も、その隣を、いつか出会える誰かのために、大事にとっておけばいい。
たぶんそれは、大事なものを手に入れるために、必要な、空白の時間なのだから―――。
完