それから数ヶ月後の春―――。
教育実習を終えた俺は教育免許を取得し、無事大学を卒業。
就活を頑張った甲斐もあり、今日からホンモノの教師となる。長年の夢が叶い、これからも気に入っていたマンションに住むことができるわけで、俺としては嬉しいかぎりだ。
・・まぁ、俺が今住んでいるのは、ワンルームの301号室ではなく、その上の階の401号室なんだけど。
これからは家賃も無理なく払っていけるというのに、久保田が一緒に住もうと言い張った結果だった。
「部屋は広いし、どうせいつも俺んち泊まるじゃない。家賃がもったいないっしょ?俺、家事も得意
だし、いい奥さんになると思うけど?」
そう言って譲らない久保田に、俺が根負けした形だな。
まったくほんと都合のいいときだけ、わがままなヤツ。
「よし、準備完了」
真新しいスーツに身を包み、鏡をチェックして俺は大きく深呼吸した。今日から社会人一年生とあってはピシリと気合いも入る。
「おはよう・・、あれ、今日は早いね?」
火をつけたばかりの煙草をくわえた、寝ぼけ眼の久保田がリビングに入ってきて、細い目をぱちぱちさせた。
「おはよ。当たり前だろ、初日なんだから」
「なんだ、一緒に登校できると思ったのになぁ」
「恥ずかしくてできるかよ!ただでさえ教育実習の時に噂になってんのに!」
そう、なにせ俺の就職先はこいつの通う荒磯高等学校なんだ。久保田はあと1年とはいえ、俺たちは正真正銘の教師と生徒。こいつとこーいう関係であることは、絶対に秘密とあって、とにかく気が抜けない。
だけど、久保田はコトが分かっているのか、いないのか。
「別にいいっしょ。ほんとのことなんだから」と、のうのうと言ってのける。ぜってー分かってねぇだろ。
橘のことだってそうだ。あの日、変な薬を使って俺をあんな目にあわせた橘は翌日から3日間学校に来なかった。
3日後に現れたときはナニ食わぬ顔で普通に接してきたが、どうやら誰かとやりあって怪我をおっていたという噂だった。
喧嘩や暴漢にしても、空手師範の奴に怪我をさせる相手って、なかなかいねぇだろ。
俺はもしかして・・と久保田を問いつめたが、久保田は意味深に笑うばかりで。
もしそうだとしたら、教師に手を出すなんて、こいつには危機感がないのか。
まぁ、別の意味で俺も手を出されてるけど・・。
「――って、そういう問題じゃねぇ!だいたい、お前が変な風に言うから噂になったんだろうが!」
ほんとに、こいつはいっつもこれだ。
周りのことなんて興味なし。誰になんと言われようとおかまいなしだ。自分のやりたいようにやるし、それ以外は見えてない。
こいつが興味があるものといったら・・、たぶん、俺ぐらい。
そう考えて妙に照れが入る俺。
まぁ、しょうがねぇよな。超絶美青年の俺が傍にいたんじゃな。俺以外に目がいくわけもねぇし。
妄想に入っていた俺に、久保田が楽しそうに聞いてきた。
「なにニヤケてるの?」
「べつに、ニヤケてねぇし」
人の思考を読んだかのような余裕の笑み。お前のその顔の方がニヤケてるっての。
いざ出かけようという俺を、玄関まで見送ってくれた久保田を見上げる。
「お前今日バイトか?」
「うん。学校から直接行くから帰りは遅いかもね」
「ったく。ほどほどにしとけよ」
「ほーい」
このときばかりは年上になれる俺。
驚くことに、このマンションは持ち家らしく、家賃はナシという有難い環境だった。俺が働き始めればこいつがバイトをする必要もないんだけど、どうやらバイトだけは譲れないらしい。
「だって、二人で暮らしていくにはイロイロ物入りだし、お金があるに越したことはないでしょ?」
そうは言ってもこいつのバイトってのが、夜の街での麻雀屋ということを聞いて、さすがに心配になった。先生達の噂は、あるイミ間違っちゃいなかったわけだ。
それに傷害事件を起こしたって話しも事実だったみたいで。女絡みってのは特にそういう色恋沙汰とかじゃなく、要するに人助けで巻き込まれてのことだったらしいけど、そんな危ない場所ばっか行ってるから、んな目にあうんだ。
俺がそう言っても、「はいはい、気をつけます」と微笑むばかりだからしょうがない。
久保田という男は全てにおいてかなり規格外で、変わった奴だけど、今では俺の同居人で、友人で、兄弟のようで、そして恋人でもある。そんで今日からは俺の生徒でもあるわけだ。
靴を履いて振り返れば、にっこりと微笑む長身の男。
久保田は宣言通り家事はほとんどやってくれて、ほんとこうやってると、旦那様を見送る奥さんだ。
「あれ時任。ネクタイ、曲がってるよ」
「お、さんきゅ」
そうそう、こうやってネクタイ直してもらったりしてさ、こういうのってなんか、悪くない。
「・・って、なんでネクタイゆるめてんだよ?!」
久保田はなぜか胸元をゆるめ、シャツのボタンを2つほどは外していた。
「ん〜、ちょっと忘れ物?」
かわいらしく首を傾げて、ニッと笑う。いやな予感がして、胸元を押さえるが、遅かった。
「わっ!!」
両手をそれぞれ拘束され、久保田が首筋に顔を埋める。ちりっとした痛みに、何をされたのかはっきりと分かった。
「ちょっ!!久保田っ!見えるとこにアトつけやがったなっ!!!」
「だいじょーぶ、ぎりぎりのところだから、ちょっと動いた時にチラリ的に見えるくらいよ。それがまたイイよね〜」
「ばかっ!ジャージに着替えたら間違いなく見えるだろーがっ!!」
「だって、まだ俺のモノって知らない奴がいたら困るから。ちゃんとつけとかないとね。」
くっそ〜!こいつのキスマークってなんかしらねぇけど、なかなか消えねぇんだよな。
久保田は今度こそネクタイを直してくれながら、思い出したように口端を上げた。
「ああ、それから。今俺のことなんて呼んだ?はい、言い直し〜」
「うっ・・。」
こいつのペースだってのはよく分かってる。俺は自然と頬が赤くなるのを感じながら、一気に言った。
「わ、分かったよっ。く、”久保ちゃん”、いってきますっ!」
「はーい、いってらっしゃーい。あとでね。」
「ううっ・・」
まったく、恥ずかしいったらない。
あいつはあんなんだけど、年下だぞ。なのになんで俺は呼び捨てで、あいつのことは”久保ちゃん”って呼ばなきゃなんねぇんだよ。
あの日、一つだけ約束するなんて簡単に言っちまったのが間違いだ。
『これからは俺のこと、愛情を込めて可愛く”久保ちゃん”って呼んでね?』
ベッドの中での卑怯な約束に、毎回対抗しようにも、いつも俺が負けてばかりで。いつも久保田を受け入れるのに精一杯で・・。今日こそは、と気合いを入れてもいつもあいつを喜ばせるばかり・・。
というわけでしぶしぶ俺は、「学校以外で」という条件つきで、その約束をさせられたわけだった。
「ときとーセンセ」
マンションから出たところで、上から俺を呼ぶ声がした。振り返るとベランダで手を振る久保田の姿。何事かと思えば、久保田は穏やかなくせに、よく通る声で言った。
「体育館の倉庫とかで、逢い引きしようね〜」
ぎゃーっ!!朝っぱらからなんてことっ!!大声で言うなぁ!!
道行くサラリーマンや女子高生たちの不審な視線が痛いっ。
体育倉庫だぁ!?そんなとこでナニすんだよっ!
「ばっかやろっ!だ、誰がんなとこでするかぁ!!!」
「あら、じゃあどこでならいいのかなぁ〜」
楽しそうな久保田の声に、ハッとする俺。今のは無視するべきだったと気づいてももう遅い。
黄色い悲鳴をあげた女子高生らの制服が、これから足を向ける荒磯の制服だったことに、思わず頭を抱えたくなる。
ああ、もうこれで間違いない。
この首筋のキスマークと今の話が流れれば、俺は再び間違いなく噂の的だろう。
教育実習の初日と同じく、今日も俺にとって最悪なはじまりになりそうだ。
だけど俺はとりあえず、ため息の代わりに大きく深呼吸をする。
見上げれば、空は青くて。真っ白な雲と太陽の光がまぶしい。
俺は可愛げのない奥さんに見送られながら、自然とほころぶ口元を引き締めて、学校へと走り出した。
完