――――時任。
俺には一つだけ、叶えたい『願い』がある。
お前はそれがなんなのか、知っているだろうか・・?
その瞳はいつも真っ直ぐに俺を見据えて、そして真実を望むから・・・、
俺はきっとまた、お前に伝えることができず、
それでも必死でお前のぬくもりを求めるのだろう。
たとえ、お前が俺を、何度忘れたとしても・・・・。
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ピンポーン
「はいはい」
久々の来訪者に玄関を開けるとスーツを緩く着こなした男が軽く手を挙げる。久保田は笑みを浮かべて招き入れた。
「おう、元気か、誠人」
「葛西さん、いらっしゃい」
久保田の前開きのシャツからは白い包帯が外され、葛西は久保田の顔色がだいぶ良くなったと見て笑顔をみせる。
手土産の箱を久保田に渡して、ネクタイをゆるめながらリビングへと向かった。
「それで、どうだ時坊の様子は?」
葛西の言葉に、久保田は肩をすくめてみせた。
「うん、体はほぼ完治。・・・記憶はゼンゼン」
―――あの日、滝沢のボートに拾われた久保田らは、葛西の出した警察船の助けもあり、無事に鵠の元へと運ばれ何とか処置を受けることができた。時任の怪我は出血が酷く一時は危険な状態だったが、わずかに急所を外れていたことが幸いしてか、一命を取り留めることができたのだった。
時任はそれから1週間眠り続けていたのだが、目覚めてからのこの数カ月の間に順調に傷を癒し、驚くべき回復をみせていた。
だがやはり身体の傷よりも心配されたのは精神の方だった。あれほどの洗脳状態から廃人にもならずにここまで回復すること自体奇跡的だという。
しかし奥井に投与された未知のクスリや度重なる洗脳の後遺症としてか、時任の記憶が戻る様子はなかった。獣化した右手に関しても、やはり少しずつ確実に進行しているようだった。恐らく奥井の言うとおり、放っておけばこれからも進行していくのだろう。
また、爆破されたWAの研究施設は警察の捜査が入ったのだが、その極秘の研究材料も情報も全て破壊されたと発表され、獣化された遺体とWAとの関係性も表沙汰になることはなかった。
葛西は納得できない様子で、警察の上層部に“あの男”が何かしら圧力をかけた影響なのだろうと息巻いていたのだが、それ以上手の打ちようはなかった。
しかし、それで手を引く人ではない。事実、葛西は独断で焼け残ったWAの資料と研究材料を押収し、専門の研究員と共に極秘で調査を進めている。
「そんなことして、上にばれたらどうなることやら・・。」
久保田がそう言うと、葛西は笑っていた。
「なに、WAなんざどうでもいいが、お前の言う奥井の話を信じるなら、時坊の右手の進行を止める方法が見つかるかもしれねぇだろ?やれるところまでやってみるさ」
「警察なんざ何もできないが、少しは役に立てるだろ?」と苦笑する葛西に、久保田は素直に礼を言った。
これから先、うまくいけば、右手の進行を止めることができるかもしれないし・・、できないかもしれない。それは神のみぞ知るというものだろうが・・、久保田は時任に聞かれるまま、時任の忘れていた右手について全てを話すことにした。
記憶を失っても、自分のことはちゃんと知りたいと、時任の眼が曇ることはなかったのだ。
「俺は、望みは捨てねぇ、それが俺の運命なら真っ向からのぞんでやるよ」
今のところ治す手立てはないと、そう断言したというのに、時任の口から出る言葉は強く挑発的なもので。記憶を無くしても、絶望の淵に立たされても変わらない、それはあまりにも時任らしくて、久保田はただ、頷くことしかできなかった。
「それで、周りに変わった様子はねぇか?またあの男が・・」
「今のところは特になしかな」
葛西の心配はそこにもあったのだろう。
時任が無事に帰ってきたとはいえ、状況は何も変わらないのだから、当然と言えば当然だった。
その後、真田は生きているらしいという鵠の情報があったが、出雲会から男の姿は消えたという。WAを追っていた東条組も指揮を執っていた関谷を欠いたこともあってか、その動きは沈静化していた。
だが・・・、このままでは終わらないだろうことは確かだった。
「・・・あの男が簡単に諦めるとも思えないしね」
男の顔を正面から見たことがないのだから、その横顔すらぼんやりとしか思い出せないのは仕方がない。久保田は記憶の中の、そのおぼろげな横顔を思い浮かべて思った。
一度も目を合わせたこともない、口を聞いたこともないあの男が、どんな手段にでるのか・・、正直、見当もつかないが、恐らく近い将来、決着をつけるときがくるのだろう。
―――たとえ俺が生きようと、死のうと・・。
「時任、葛西さんがケーキ持ってきてくれたよ」
テレビの前でゲームをしていた時任は、顔だけぐるりとこちらを向いて嬉しそうに笑った。
「マジでっ?おっちゃん、あんがとっ!久保ちゃん、俺、チョコレートケーキ!」
花が咲いたように笑い、無邪気に目を輝かせる。久保田は微笑んでおやつの準備にかかった。
「いいけど、夕飯前だから1個だけね」
「わぁーったよっ」
久保田と時任のかけあいを見た葛西は少し目を張った。
再び記憶を無くした時任だったが、二人の空間に何の違和感も感じなかったからだ。
「・・・元気そうじゃねぇか、時坊」
「んだよ、おっちゃん驚いたカオして、俺は元気だよ」
時任は首をかしげてそれだけ言うと、ゲームが気になるのかまたコントローラを手に熱中し始めた。
そのしぐさもあまりにも違和感がなかったので、葛西は久保田に耳打ちするように聞いた。
「誠人、お前のこと本当に覚えてねぇんだよな?」
「うん、自分のことも俺のことも・・アキラ・・、奥井のこともサッパリ覚えてないみたいよ。・・でも、『久保ちゃん』って俺が教えたワケじゃなく呼んでくれたんだけどね」
葛西は煙を吐きながら、目を細めて笑った。
「へぇ、記憶になくても・・何かしら“お前”が残ってたってことか?」
「さぁ・・ね、記憶なんて俺にはどーでもいいから」
葛西は一瞬不可解なカオをするが、小さく息を吐くとボリボリと頭を掻きながら、
「まぁ、お前らが無事ならそれで良かったってことだ」
そう言って時任の頭を後ろから乱暴にぐしゃぐしゃと撫でた。
「うぁっ!ちょっとおっちゃんっ!ヤメロよ〜!も少しでクリアできんのにっ!」
ジタバタしながら、それでも照れくさそうに笑っている時任を、久保田は優しく微笑み見守る。
穏やかな日々を感じながら、確かにいつもの日常がそこにあった。
決して諦めることのできなかった、たったひとつの『願い』。
それがたとえ嵐の前のひとときの休息だとしても・・、それは何よりも、久保田の胸を温かく包みこんでいた。