屋上からの階段を降りた橘を、待っていた人物が声をかけた。橘はその人物を確認すると、小さく息を吐いて微笑む。
「無傷で戻ってきたということは、お前の茶番も未遂で終わったようだな」
少々きつい物言いは松本なりの怒りの現れであった。橘はそれをよく知っている。
「ええ、そのとおりです。いいところで邪魔されました。でも助かりましたね。先ほどの久保田君の勢いだと、あれ以上手を出したら、たとえ反撃しても半殺しにされたでしょうね」
物騒なことを微笑みながら口にする橘に、松本は眉根を寄せた。
「橘・・、分かっているだろう?俺と誠人には特別な感情など一切ないということを」
「・・ええ。けれどどうしても妬いてしまうんです。貴方の過去など関係ないと思ってましたが、僕はよほど貴方のすべてを手にいれたいようです」
まるで自分を客観的に見たように、そんな自分を嘲笑するかのように言う橘に、松本は手が届くほど近づくと、向かい合うようにしてその目を強くした。
「分かっているさ。だったらもう憂さ晴らしのように時任君にちょっかい出すのはやめるんだな。誠人も黙っちゃいないだろうが、それは俺も同じだぞ」
少し怒るような言葉に、橘は嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ、妬いてくださるんですか?」
「俺が妬かないと思ったのか?恋人が浮気しようとすれば傷つくのは当たり前だろう?」
照れを隠したようなぶっきらぼうな物言いだったが、松本の真剣な言葉だった。二人は確かに想い合っているというのに、相手の気持ちを確かめるような行動をしてしまう、そんな橘の気持ちも分からないでもなかった。
松本は橘を心から信じているが、小さなことで胸に押し寄せる不安は、やはり同じように胸を締め付けることがあるのだ。愛していればいるほどに―――。
橘はそんな恋人の心情をすべて分かっているかのように、目を細めると、そっと松本の頬へと手を伸ばし、すまなそうに頭を垂れる。
「会長、すみませんでした。今回は遊びが過ぎたようですね。・・時任君があまりにも可愛いかったので、つい・・。言い訳になりますが、僕が愛しているのは貴方だけですよ。」
赤くなったのは松本だった。直接的な愛の言葉をまさか学校で聞くとは思わなかったのだ。”橘は俺に惚れている”と久保田に断言しておきながら、橘を前にすると恥ずかしそうに頬を染めるあたり、やはり受けの性なのだろうか。
「わ、分かっている!今回は許すが、次はないと思えよ!」
「・・ふふ、久保田君と同じことおっしゃるんですね。よく似てらっしゃる」
「お、おい橘、まだそんなことを・・」
「冗談ですよ。でも妬きもちは恋人の特権ですからね・・」
仲むつまじく肩を並べて本部に戻る二人の姿は、まさにバカップルといえる。仲直りといえるのか、とにかく元の二人に戻ったようであった。が、嵐の去った後、今回一番被害を被った時任の災難はまだ続くようだった。
橘が屋上を後にしてからしばらく、時任の怒りは未だ収まらず何やらぶつぶつと文句を言い続けている。
「あいつ、やっぱ最悪だなっ、こっちが下手にでてりゃ騙し打ちみたいなマネしやがってっ!くっそー何がキスだっ、何が帳消しだっっ!」
「・・・災難だったねぇ」
久保田はそう言うと、煙草に火をつけながら時任の手首をチラリと見る。細いそこは、くっきりとフェンスの跡が残り、擦り切れたように赤くなっていた。
(・・松本に遠慮しない方がよかったかな)
久保田は脅し文句だけで橘を帰したことを後悔しながら、自分の体温が少し下がったかのように感じた。
「そういや、久保ちゃん、なんでここに?」
「・・別に?なんとなくね」
やっと落ち着いた時任がそう話しかけるが、久保田は答えた自分の声がいつもよりも低いことに気づいた。反射した眼鏡で久保田の表情はよく見えないが、時任も違和感を感じ首を傾げていた。
「時任こそ、こんなとこで橘とナニしてたのかなぁ?」
「な、何って見りゃ分かんだろ。あいつにしてやられたんだよ。暇つぶしにからかいやがって!」
「騙されて、のこのこ二人きりになって、んで?キスされたってわけ?」
「き、キスなんかしてねぇよ!ちょっと首舐められただけっ・・、、つーか、何だよ久保ちゃん、なんか怒ってんのか?」
そう言って舐められたらしい場所を押さえる時任を、久保田は冷ややかに見た。胸をうずまいていた黒いモノが、時任に対する怒りとなって静かに久保田から発せられていたのだ。そしてその感情をなんと呼ぶか、久保田は気づいていたのだった。恐らく、もっとずっと前から心に在ったその感情は、相手が時任だからこそ感じるものだということも――。
「そりゃ怒るでしょ。あんな下心丸出しにひっかかって襲われるなんてね。今時女子でもひっかからないっしょ」
「っ!!なんだよそれっ!そりゃ俺がバカだったけどさっ、なんで久保ちゃんが怒んだよっ」
時任は久保田と喧嘩したことなどほとんどなかった。どちらかが不機嫌になったとしても、寝れば忘れる程度で、言い合いも初めてのことだった。しかも今回は時任が被害を被り、怒り心頭というのに、その上久保田にも突っかかられ、時任は泣きたい気分だった。
「・・わかんない?橘は気づいたって言ってたけど・・」
そんな時任に久保田は小さく息を吐いてみせる。久保田は先ほどの橘の言い残した意味をちゃんと理解していた。おそらく時任の中にあった気持ちを橘が分かるように証明してくれたのだろうと。だからこそ橘を小さな礼の意味を込めて無傷で帰したのだ。だというのに目の前の時任は不安げな顔で目を丸くさせている。久保田のため息ももっともなことだった。
「わかんねぇよっ・だから何がっー・・」
「妬いてるんだけど」
「・・・・へ・・?」
理解していない間抜けな声にも、久保田はこのままあやふやにするつもりはなかった。もう自分の気持ちを誤魔化すつもりはなかったのである。
「・・お前のことが好きだから、一人占めしたいってこと。だからお前に他の奴が近づくことが許せないんだよね」
少し自嘲的な響きを含んだ言葉は、久保田の妬みという汚い感情ゆえのものだったのかもしれない。それでも久保田は自分の中に常にあった”嫉妬”という感情を、時任に知らしめたいと思った。時任の中にも必ずあるその感情に気づいてほしいのだと。
時任は久保田の言葉を消化するまで、しばらく目まぐるしいほどの百面相を繰り広げたのだった。先ほど橘に言われた言葉が浮かび、赤くなったりブンブンと首を振ったりと大忙しだ。
「あ、なるほど・・・。って!?それって、えっと、その、俺と同じじゃん・・じゃあなくて!・・いやいや、待てよ。だって俺らはノーマル・・。でも、っていうと・・つまり、俺と久保ちゃんって・・・」
ようやく出たらしい答えに、久保田がさらりと答える。
「相思相愛のホモカップル?」
「だーーーーっ!!簡単に言うなぁっ!や、やっぱりそうなのか!?で、でもっ、そ、そんなんじゃなくて、もっと言い方あるだろーがっ」
「って、どんな?」
「うーーっ・・」
必死に考えを巡らせる時任に、久保田は思わず口元を綻ばせていた。時任もやっと分かったようである。久保田に女性が近づくたびにイライラしていたこと、それは久保田を好きだからこその想いだということ、そしてその想いはどう考えても友情の枠にはまりきれるものではないということ。二人の想いは同じようにお互いに向けられていて、改めて久保田の瞳を見るたびにドクドク高鳴る胸に、時任は自分の想いが嘘偽りないものだと思い知らされていた。思わぬ展開に火照る顔で睨むように久保田を見上げるしかなかった。
「いいじゃない。相思相愛なら何だって。うん、これですっきりした。これからは恋人としてよろしくね?」
少し可愛らしく首をかしげながら、赤い時任の顔を覗く。イタズラっぽいセリフだったが、言葉は真剣なのだと時任にも分かっているようだった。
「こ、ここ恋人・・っ!や、やっぱそういうことだよな」
「しょうがないでしょ?相思相愛なんだから」
「何度も言うなぁーっ!」
往生際の悪い時任のその戸惑う表情も、赤い頬で潤んだ瞳が自分を見上げるサマも、時任の全てが愛しく感じた久保田は、目尻をますます下げて優しく微笑んだ。そして胸にあった黒いシミが少しずつ浄化されていくかのように、代わりに温かいものが広がっていく。
穏やかな笑みを浮かべた久保田を、時任もまた湧きあがる愛しさに何かくすぐったいものを感じながら、恥ずかしそうに笑った。
「〜っ、分かったよっ、でもまずは、け、健全な付き合いだぞっ」
男同士のつき合い方を時任が知るわけもないのだが、”まずは”というフレーズに久保田の笑みがクスリとこぼれた。
「はいはい」
ようやく久保田の怒りが収まった頃、なぜか二人は恋人同士となっていた。久保田は今まで見た女性よりも誰よりも、時任を魅力的だと思い目が離せなかった。
そしてそうなってしまった途端、すぐにでも押し倒してみたくなるから不思議だな、とまた首を傾げている。
(うーん、これが攻めと受けの分けどころってやつ?)
時任にしてみればとんでもないことを、ぼんやりと考えて笑みを濃くした久保田だった。
こうして始まった二人の恋愛だったが、二人の清らかなつきあいがいつまで続くのかは・・・恐らく久保田のみぞ知る・・のであった。