「橘、どこへ行く?」
資料を手に席を立った橘に、松本も立ち上がって尋ねた。
「理事長室に、この資料を届けにあがります」
「それは・・お前が行かねばならんのか?」
「・・・会長・・」
「まぁいい。よろしく頼む」
「・・・・はい」
小さく笑みを張り付けた松本は生徒会室のソファへと腰を下ろす。二人きりの時には滅多に見せることのない対外用の笑みに、橘は困ったような笑みを浮かべて部屋を出た。
生徒会長と副会長であり、恋人同士でもある二人は荒磯高等学校の中でも、執行部の名物コンビに次ぐ有名なカップルだ。
学年首席の松本とナンバー2の橘は、頭のキレとカリスマ性もあってか、生徒はもちろん教師からも圧倒的な信頼を得ている。
冷静沈着であり、計算高い性格。似ているようで実は正反対の性格である二人の役割は、それぞれだった。
プライド高く威厳のある松本は、何事にも常に筋が通っており、無言で人を従わせるようなトップにつくべき大きな器を感じさせる。しかしそのプライド故か人に頭を下げたり機嫌をとるような真似が苦手だった。
橘はそういった面をすべてカバーする。教師や客への機嫌取りはもちろん、仕事をこなした執行部の労をねぎらう役目も忘れない。
外見とその微笑みを武器にすべてをそつなくこなす、言わずとしれた会長の懐刀である。
公私ともに深い信頼関係のある二人。
そして今日も橘は副会長として自分がやるべき仕事に向かっていたのだった。
「橘君、よく来たね。かけたまえ」
「失礼します。先月分の予実管理書と生徒からの校外授業などの要望書です」
荒磯高校の中で一番装飾品にお金をかけているだろう場所、理事長室。理事長席の目の前に置かれた応接ソファは生徒会室のそれよりも高級で柔らかな座り心地である。そこに座り慣れているのは、会長の松本よりも、かなりの頻度でここに足を向けているに他ならない。
向かいに座った理事長は満面の笑みで応えた。
「ああ、目を通しておくよ。それよりも橘君、最近あまり私に会いに来てくれないのは何故かね?」
「申し訳ありません、理事長。ここのところ何かと校内行事が多かったもので・・」
理事長は腰をあげると申し訳なさげに頭を下げる橘の横へと座り直す。その不自然な距離に、橘は困ったような笑みを浮かべた。
「橘君、今日はもう公務も終わりだろう。どうだね、これからうちで食事でも・・」
堂々と生徒に誘いをかけている男は、見るからに下心たっぷりのねっとりとした視線で橘を見ている。どうやらこの男も荒磯一人気のある橘のルックスに、やられた一人らしかった。
中肉中背の四十過ぎの男は、黙っていればそれなりに貫禄のあるおじさまであるが、目尻にしわを作って鼻の下を伸ばしている様子は、端から見ればただのエロジジイだ。
両膝に行儀よく置いていた手の上に、しっとりとした手を添えて鼻息を荒くしてきた男に、橘は内心大きなため息をついていた。
「申し訳ありませんが、所用が残っておりますので」
「そうかね、それは仕方ないね」
はっきりと断るが、その表情が優しく美しい微笑みであるせいか、理事長は気を悪くした様子もなくその笑顔に見惚れている。
どんなときでも対外用の笑みを欠かさない、橘だからこそできる芸当だが、そんな穏やかで美しい微笑みのまま、時には無情にバッサリと切り捨てることを知っている者なら、思わず後ずさりしたくなるほどの恐ろしい笑みであった。
それもそのはず、先程の松本の表情をしっかりと読み取っているのだから、これ以上最愛の人の心痛を増すような真似は避けたいところだ。
―――そろそろ戻らないと、余計な心配はかけたくありませんからね・・。
しかしそんな思いを知る由もない理事長が、思わぬことを口にした。
「ああ、そういえば橘君。君に聞きたいことがあってね。実は噂で聞いたのだが、松本会長と君が・・ただならぬ関係であると・・それは本当かね?」
橘の笑みが不意に揺らぐ。常に何事よりも最優先に想い続けている人の名を口にされ、その真意を測っているのか、その瞳は変わらず穏やかであるが、明らかに凄みを増していた。
「・・・理事長は、生徒会とはいえイチ生徒のプライベートまでご関心がおありですか?」
柔らかい返しなりに”プライバシーの侵害だがそれでも知りたいか”と直訳もできるが、理事長はそんなニュアンスにも気づいた様子はなく、口元にいやらしい笑みを浮かべた。
「いやいや。君のことなら特別だよ。・・もし君が松本でなくとも、同性に興味があるのなら・・」
そう言いながら添えていた手でぎゅっと橘の細い手を握ったとき、コンコンとノックが遮りガチャリと扉が開く。
「――失礼します、理事長」
深く一礼して入ってきた男を見て、理事長は橘の手を咄嗟に離した。
「――ま、松本君。ど、どうかしたのか?」
「松本会長・・」
橘が少し驚いたように入ってきた松本を見上げる。松本はそんな橘とその横に腰掛けている理事長を見て、わずかに眉をぴくりと寄せ、目を鋭くした。
「・・橘がお持ちした資料にぬけがありまして。お持ちいたしました」
「そ、そうかね。それはご苦労だったね。君にわざわざ出向いてもらうとは」
「いえ。本来ならば私がお邪魔しなければいけないものを、いつも申し訳ないと思っております。次回から私もご一緒させていただきましょう。では、失礼します」
ハキハキと言いたいことだけ言うと、松本は深々と一礼して部屋を後にした。橘もすかさず立ち上がり、理事長に再び笑みを見せて一礼した。
「理事長、僕も失礼いたします」
理事長室を出た松本はかなりの速さで歩いていたのだが、すぐに後ろから橘が追いついた。
ぐっと眉を寄せてしゃんと顔を上げて歩く松本の、少し後ろからついて歩きながら、橘は声をかけた。
「会長、いかがなさったのですか?」
廊下ですれ違う生徒たちが、気むずかしい表情の会長に道をあけ、傍らに寄り添う副会長に憧れにも似た視線を送る。
「・・何がだ。たまには俺も顔を出さねばと思ったまでだ」
松本は振り返ることなく言った。
”私”が”俺”に変わっただけでなく、声色からいつもと違う。恋人である橘だけが知りうるその変化に、橘はふっと息を吐いた。
「怒ってらっしゃるんですね。ご存じだとは思いますが、理事長は・・」
「分かっている。理事長がお前を気に入っていることも。それでもお前にこういう接待をやってもらっているのは、俺が愛想笑いの一つもまともにできないからだと。お前に甘えてばかりいる自分のせいだと分かっているさ。」
「・・会長」
生徒会長として一目置かれ、同じ学年の生徒にも少し敬遠されがちな優等生である松本は、人に頭を下げるのも愛想笑いをすることも苦手だった。そのためいつも橘が補佐し、生徒や理事長との橋渡しをしている。
これまでそのおかげで問題なく業務は成り立っていたし、橘に感謝していた。
しかし恋人としては・・、明らかに他の男が色目を以て近づいてくる様子を、黙って見ていることが、辛くないはずもない。
言葉少なく戻った生徒会室で、机に向かっていた松本は、いつものようにテキパキと仕事をこなす橘の後ろ姿を目で追う。
意味なく文字の羅列を見ていた本をパタンと閉じると、松本は静かに声を発した。
「・・・・遙、来てくれ」
ピタリと仕事の手を止めた橘は、その名を呼ぶこの世でたった一人の愛しい人が、まっすぐにこちらに注ぐ熱い瞳を見返し、優しく微笑んだ。
そしてドアへ向かいカチャリと鍵を閉めると、恋人のもとへ近寄った。
「珍しいですね、学校で貴方が誘ってくるなんて」
「・・悪いか?俺だって時にお前が欲しくなるさ」
「いいえ、嬉しいですよ。僕はいつでも貴方が欲しいですから・・。」
座っている松本を椅子ごとくるりとこちらを向かせて、かがんで唇を寄せた。
触れるだけのキスを何度か交わして、橘が囁いた。
「――愛しています」
「ああ、知っている。――俺もだ」
「ええ、僕も知っています」
言い合って目を合わせて、ふっと笑う。
松本の少し照れたような柔らかな笑みに、橘は目を細めて微笑んだ。
恋人だけに見せる、本当の微笑み。
互いだけが知っている素顔が、何よりも二人を近づける。
深く唇を合わせ舌を絡めると、松本は恋人の首に腕を巻き付ける。橘はさらに激しく貪るように、ぐっと腰を引き寄せた。
「・・やはり次は俺も同行しよう」
「――ええ、お願いします」
ようやく離れた隙間からボソリと呟く本音に、橘は笑みを深くし再び口付けると、外した眼鏡をコトリと机に置いた。
「・・・愛していますよ、隆久。」