ようやく騒ぎを聞きつけた男らが閑散としたカジノに駆け込むころ、久保田と時任はユーリの案内の元、隠しエレベーターから地上へとあがっていた。
スタッフルームのロッカー裏にあったこのエレベーターは長谷部がユーリを捕えるためにさきほど使ったものだった。
おそらく、長谷部が非常時の脱出用に内密に作らせたものだろうが、幸い指紋照合などなくとも通常通り乗ることができた。
3人は繋がっていた地下1F非常通路から1Fロビーまで駆け上がると、カジノを知る一部の支配人らが血相を変えている中、堂々と正面から脱出したのだった。
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数週間後、横浜に戻った二人は、鵠の店に寄った。
あの日、あのホテルの地下から火の手があがり、10人ほどの死者が出たと発表された。火は地下にあった中枢電気が何らかの原因でショートしたためであるという。
その死亡リストを見れば、全員がホテル関係者で、オーナーの長谷部の死は大きな話題にもなっていた。
しかし新聞にも死因が銃弾であることや、カジノの記事は出ていない。
鵠が言うには、長谷部は警察庁の上層部とも深い繋がりがあり、それらもカジノの大事な客であったという。
大がかりな組織ぐるみの隠ぺい工作によって、カジノは存在自体なかったことにした、というわけだった。
よって長谷部の人物も、これまでの悪行さえもすべて闇に葬られることとなった。
ユーリが長谷部の死を望まなければ、また違った道があったのかもしれないが、久保田はあの時、ユーリの意志を尊重した。長谷部が実際にどんな想いを持っていたのか、それを考えることすら、もう意味のないことだった。
「ユーリさんからお二人にお礼の手紙がきてましてね」
鵠はそう言って微笑むと、手紙を二人に渡した。
あれから、ユーリは絵を大事に抱えたまま、父親のもとへ帰ったようだった。
あの絵を父親に見せるのか・・、であれば長谷部の言うように、もしかすると記憶喪失の父親は、妻の悲惨な死までも思い出してしまうのではないか・・。思うところはあるにせよ、久保田と時任はそれを彼女に尋ねることはせず、その背中を見送ったのだった。
マンションへの帰り道、久保田は手紙に目を通すと、時任に渡した。
ユーリの手紙は、二人へのお礼が書き綴られていた。
絵は結局、父親に見せていないとのことだった。
この絵で、記憶と取り戻せるかどうかは別として、自分の元に母が帰ってきてくれたことが一番大事なことなのだと、新たな想いが伝わるような文面だった。
「ふーん、よかったじゃん、なぁ久保ちゃん」
「まぁ、絵を取り戻すっていう目的は果たせたわけだしね・・」
最後に手紙はこう締めくくられていた。
『たとえ記憶を失っていても、本当に母を愛しているのであれば、いつか必ず思い出してくれるのだと信じています』
時任はわずかに目を開いたまま、じっと手紙を見つめていた。
”本当に愛しているのであれば、必ず思い出す”
その一文が何度も頭を巡っていた。
久保田はいつものように目を細めながら、そんな相方の様子をちらりと横目で見る。
そしてゆっくりと煙を吐き出しながら、遠い雲を見つめた。
この2年常に傍にいた時任は、記憶を取り戻す様子はない。けれど、時任は無意識に昔の記憶に翻弄されていた。
それは悪夢だったり、錯乱状態のときだったり・・。
『アキラさんっ・・』
無意識に口走った時任の記憶の断片を、久保田は知っていた。自分のことすら分からない時任が、自分の名よりも先に口にした、知らない男の名前・・。それが久保田の頭から消えることはなかった。
黙り込む久保田に気づきもせずに、時任がふいに明るい声を上げた。
「だったら、俺も大丈夫だな」
「・・・ん?」
「だからさ、記憶喪失の奴が記憶を取り戻すと、その記憶を失ってた間のことって忘れるってよく言うだろ?」
「うん・・」
久保田にとって考えないようにしていたことを、時任の口から言われると、久保田はまた遠くを見ずにはいられない。
しかし時任は思いもよらぬ台詞を続けて言った。
「これからもし久保ちゃんと出会った記憶をさ、・・もし失ったとしても、俺は久保ちゃんのことだけは必ず思い出すってことだ」
その瞬間、久保田はここ数日で一番の驚きの表情をしていたのだろう。
”本当に愛しているのであれば、必ず思い出す“
その一文と時任の台詞をやっと消化するころ、
(この子は本当に意味が分かって言ってるのかね)
と唸らずにはいられない久保田だった。
(あっさり言うんだもんなぁ――)
思わず天を仰いだ久保田を、時任がきょとんとして見つめている。
「久保ちゃん、どした?」
久保田は高い空から隣の相方に目を移すと、ゆるやかな弧を描いた口元で言った。
「・・・・それって・・」
「?」
「愛の告白・・?」
久保田の言葉にポカンとしていた時任の顔が、みるみる赤く染まっていく。
「――っばばば、ばか!んなわけねぇだろ!!」
「だって、俺のこと”愛してるから忘れない”って、ことっしょ?」
久保田がそう言うと、時任は怒ったようにそっぽ向くが、隠せない耳までも赤く染まっているのを見て、久保田は破顔した。
(そっか、そうだね)
久保田は愛しげに、頬を染めた時任の横顔を見つめながら、その少年の強さに想いを馳せた。
――時任は過去を向いていない。失った過去を思い出すことよりも、これから先、また記憶を失うことの方を恐れている。
(つまり、時任にとって大事なのは、今、この瞬間であり、これから進んでいく未来であるんだね)
久保田はそのあまりにも時任らしい強い意思に、口元を綻ばせながら言った。
「・・時任、もし忘れたら思い出せるように俺の絵でも描こうか?自画像とか」
「久保ちゃん、絵、下手だろ?」
「ひどいなぁ、確かに得意じゃないけどねぇ」
「見ても似てなかったら意味ねぇだろ」
まだ照れているのか、ごまかすように顔をしかめてそっぽ向く時任を、久保田は楽しげに見つめると、
「ふーん、じゃあさ、・・・時任の体に染みつけとこうかな、“俺を”さ」
意味深に笑い、自分の腕を時任の首にまわして、驚くその顔を引き寄せた。
「なっ・・わっ・・・」
まだ日の明るい公道で、二人の影は近づき一つに重なる。
この一瞬が永遠に続けばいいと、切に願いながら―――。
(完)