朝、俺を起こしたのは、右手の激痛だった。
気づけば手首を左手できつく握りしめ、なんとか痛みに耐えようと身体を丸めていた。隣に寝ているはずの温もりはすでになく、代わりに全身に張り付くような汗が肌に不快感を与えている。
けれどそんなことが全てどーでもよくなるくらい、感覚のないはずの俺の右手は、なぜか酷い痛みだけを俺に伝えていて。
「くっ、そ・・・!」
なんだってんだ・・!
―――こんな右手、何に触れたってなんも感じやしないのに。
それは発作みたいに度々こうやって俺を苦しめる。そのたびにただ耐えるしかないことに、どうしようもない苛立ちを感じながら、なんとか治まるまでこうやって強く歯を噛みしめて、やりすごして。
時間で言えば数分だったり数十分だったりするんだろうけど、イヤな時間は長く感じるってまんまで、まるで永遠に続くんじゃないかっていう時間を感じながら、右手だけじゃなくて頭の方までオカシくなってきてるんじゃないかと疑いたくなる。
そんなときは、痛みに真っ白になりながら、考えたくないことばかりが頭をよぎるから、俺は何も考えたくなくて、いっそ意識を失ってしまえたらと弱音を吐きたくなったりするから。
だから一つ良かったことといえば、久保ちゃんがこの部屋にいないことだった。
俺より早起きの久保ちゃんはいつもこの時間はキッチンで軽い朝食の準備をしてくれているころだろう。ドア越しにでもかすかにコーヒーの香りが漂っていた。
時々こうやって耐えていることを、久保ちゃんは知っている。俺が何も言わずとも、とっくに久保ちゃんは気づいてるんだ。それでも久保ちゃんが何も聞いてこないことが、俺にとっては有難かった。
・・・・久保ちゃんに、弱音を吐かずにすむから。
俺もいずれあの獣化した遺体のように、内蔵をまき散らして死ぬことになるとしても、すべてを知るために前を向いていくんだって決めたのに、こんな痛みにも耐えられず情けなくうずくまる姿ばかり見せているのが恥ずかしくて、格好悪くて・・。
久保ちゃんはいつもそんな時、俺に触れようとはしない。言葉も何もなく、無表情にただそこで見守っている。
だけど、表情なんて変わらなくとも、久保ちゃんの瞳はいつも酷く寂しそうで、たぶん俺よりも痛そうで・・。それに気づいた時、胸が張り裂けそうだった。
―――なんでお前がそんなカオしてんだよ。俺が今にも死んじまうとか思ってんのか?
ただじっと俺を見つめる久保ちゃんが、まるで真っ暗な世界で迷子になって怯えている、小さな子供のように思えた。
そんなとき俺は自分の無力さを痛感させられる。
そんなカオすんなよ、俺は大丈夫だって。ここからいなくなったり、しねぇから。
・・そんな言葉さえかけてやれなくて・・。
自分のことに無頓着なくせに俺のことには聡い久保ちゃんは、たぶん俺の痛みを自分のことのように何倍も大きく感じていたりするから・・・。
「っつ・・・・!!」
それにしても今日のもずいぶんとまたキッツイな・・・。
激しい痛みの波が次第に思考まで奪っていく。
暑くて汗をかいていたはずなのに、いつの間にか身体がひんやりと冷えていた。
もしかして、このまま死んじゃったりして・・。
不意にそんな暗いコトが浮かんだ。
いや、でもそれはまずいだろ。だってもうすぐ久保ちゃんが俺を起こしにくるはずだから。俺がほんとうに死んじまったら、久保ちゃんは・・・。
そんな思考がよぎる自分が、マジでらしくなくて。
色が無くなるほど握りしめている左手を眺めながら、急に孤独を感じている自分がホント情けなすぎて笑えてきた。
ああ、でも俺、まだ笑えんじゃん。なんて。
・・久保ちゃん。
気づけば唇だけがその名を呼んでいた。声にならずに自分の耳にさえも聞こえなくとも、ほんの少し胸の奥が温かくなる。
声に出せない大事な言葉のように、何度かその名を唱えていると、少しずつ何かが変わったいくような気がした。
そうだ、あの扉の向こうには久保ちゃんがいる。
たった数メートル離れているところに、久保ちゃんは、ちゃんといる。
激しい痛みに意識が朦朧としながら、ぎゅっと目を閉じる。視界は真っ暗になったけど、久保ちゃんの存在を確かに感じていた。
久保ちゃん。大丈夫だよ。俺は簡単に死んだりしねぇし、こんなの楽勝で耐えてやる。
だから、そんなカオすんなよ。
どうにか浮かんだ笑顔を消さないように、俺は強く心の中で呟いた。
瞼の裏に浮かぶ、寂しげな姿を思い浮かべながら・・・。
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何かを感じて目が覚めたのは、まだ夜明け前のことだった。それが時任の苦しげな声だったことに気づいて、そのカオをのぞき込んだ。
額に浮かぶ汗、なにやら口走る低い言葉。また悪夢にうなされている姿が痛々しくて見ていられなかった。
薄く開いた唇に小さく口づけて、逃げるように寝室を出た。
朝食を準備してタバコをくゆらしながらも、意識は扉の向こうの時任にあって。やがて目が覚めたのだろうか、そんな気配と苦しげな声が小さく聞こえた。
扉を背にして聞き耳を立ててみれば、やはり。
夢から覚めてもまだ、お前は悪夢を見続けていた。
俺はそんなときいつも、なす統べなく、立ち尽くす。
痛みに耐える肩に触れて抱きしめてやることも、声をかけてあげることも、その痛みを引き受けることもできずに。己の無力さを痛感しながら・・。
ただ、じっと立ち尽くしている。
お前はそんな無力な俺を分かっているんだろう。決して泣き言をいわず、頼ろうともしない。
・・・けれど時任。
俺は、ここにいるから。
お前がなんでもないフリをするなら、俺はただ目を閉じてお前のそばにいるから。
ずっと、いつまでも。
やがて静かになった寝室に、俺はゆっくりと足を踏み入れた。ベッドに眠る横顔は、穏やかで。無意識に息をつめていた俺は、ようやく小さく息を吐いた。
その気配でうっすらと目を開いた時任に、「おはよう」と笑みを見せると、涙の残る瞳で見上げてくる。
汗で張り付いた前髪をかきあげてやりながら、額に一つ口づけると、くすぐったそうに笑った。
「おはよ・・」
「うん」
「・・俺、腹減った」
「朝食、できてるから」
「じゃあ、シャワー浴びてから食う」
「うん・・・」
明るい声で起きあがる笑顔とは裏腹に、触れた時任の左手が、まだ僅かに震えていることに気づいて、胸の奥に小さな鈍い痛みが走った。
そんなとき俺はまた、何もできずに立ち尽くす。
気丈に部屋を出ようとする背中を抱きしめることもできずに、ただ臆病にお前が俺の名を呼ぶのを待っているだけ。
「・・久保ちゃん・・」
振り返った時任がようやく俺を呼んだ。
まっすぐ見つめてくる瞳と目が合って、ただじっと次の言葉を待っている俺は、端から見てもかなり情けないのかもしれない。
「・・・風呂、一緒入るか?」
「・・・うん」
でも、それでいい。
情けなくても、無力でも。
お前はいつもちゃんと俺の名を呼んでくれるから。
だから、俺はただ・・、
ずっと、お前のそばにいる。