病院を飛び出して、汗でぐしょぐしょになるまで走って、気づけばマンションの下にいた。
出ていくたって、持っていく荷物なんて何一つないのに、自然と足はここに向いていて。
部屋の窓を見上げて、思わず帰りたいと思ってしまって、自分を戒めるように、ぐっと唇を噛む。
自分が言い出したことだろうが。
だいいち、あの部屋には久保ちゃんはいない。
そんな場所にいても、何の意味もない。
そうだ、出ていくんだ。と、自分に言い聞かせるように繰り返す。
今のうちに、行かねぇと・・。
久保ちゃんのカオ、もう一度見ちまったら、覚悟が鈍る。
「情けね・・・」
今までさんざん迷惑かけて、甘えてきたから、ほんっと今更なんだろうけど、今回のことで、思い知らされた。
自分のせいで久保ちゃんが死んじまうかもしれないっていう恐怖。
なんもかも分からなくなるくらい、目の前が真っ暗になって、体中が寒くて・・。
情けないほど、震えている俺がいた。
もう二度とごめんだ。久保ちゃんを失う恐怖なんて、もう・・、二度と、味わいたくない。
そんな思いに後押しされるように、マンションに背を向けて、歩きだす。
行く場所なんて、あるわけがない。
記憶なんて一ミリも戻る気配もないし、俺には過去も未来も何も分からないまま。
”今”しかない俺には、ほんとに、久保ちゃんしかなかったんだ。
ブ―ブ―ブ―
――携帯のバイブが鳴る。
確かめる間もなく、相手が誰かなんて、分かりきっていて。
この携帯は久保ちゃんにもらったものだから、どうしようかと迷いながら、結局返すことも電源を切ることもできずに握りしめていた。
街の喧噪を離れた暗い路地裏で、壁に凭れるように座り込んでいた俺は、何度目かのコ―ルの後、電話をとった。
『・・時任?』
「・・・・・・」
『時任、聞こえる?』
穏やかな久保ちゃんの声。
数時間前に別れたばかりなのに、懐かしく感じるほど、ぐっと熱い何かがこみ上げてくる。
今一番聞きたかった声が、心の隅まで染み渡っていく。
・・・・けれど。
「ん・・。聞こえてる・・」
『・・時任。』
「――荷物なんてねぇから、そんまま出ちまった。・・今、もうけっこう遠くにいんだけどさ、悪ぃ久保ちゃん、携帯持って来ちまった」
『・・・それは時任のものだから』
「・・・さんきゅ。」
”だから持っていっていいよ”そう背中を押されたようで、思わず空を見上げた。
引き留めてくれるなんて、期待でもしてたのか。
いや、違う。もう一度だけ、声が聞きたかったんだ。
だから、もうじゅ―ぶん。
「じゃ、俺も―行くよ。久保ちゃん、ちゃんと怪我治せよな・・」
『・・・・・・』
震えそうになる声に気づかれないように左手に力を入れると、手の中で携帯が小さくメキ、と音を立てる。
早く切ろうと思うのに、無言の久保ちゃんを待つようになかなか手が動かない。
「・・じゃあ、な」
そうしてようやく覚悟を決めたそのとき、
『時任、お前さ、”ウソ”――嫌いだったよね?』
今度は久保ちゃんの声がそれを遮った。
「え・・・・?」
ドキリ、と一つ鼓動が跳ねる。
突拍子もない言葉に、電話を切り損なったのもあって動揺を隠せない。そんな俺に構わず久保ちゃんは話を続けた。
『イイ嘘って、相手のためなんてキレイに聞こえるけどさ、実際は自分のためなんだよね。・・相手を傷つけないため、そんで実は自分が傷つかないため』
「・・・・・・」
久保ちゃんは、俺のウソにとっくに気づいてる。
そのことを、言ってるのだろうか。
『俺はウソって、嫌いじゃないんだよね。平気でつけるし。それに・・・、何が真実だって構わないからさ』
責められてる、気はしなかった。
怒ってる風でも責めるわけでもなく、むしろ久保ちゃんの声は明るくて・・。
『だけどさ、お前だけは・・。お前にだけは”真実”(ホントウ)でいてほしいと思う。俺にとって真実は、たぶん、お前だけだから。・・・だから時任にウソをつかれるのは・・嫌い、かな・・』
・・明るくて、どこか切ない声。
耳元から伝わる、そんな優しさが、俺を戒める。
苦しくなるほど。ぐっと胸を締め付ける。
見抜かれている。俺のことなんか、全部。
たぶん、行く場所なんかなくて、こうやって路地裏で途方に暮れてることや、これ以上久保ちゃんを巻き込みたくなくて、決意したことも。
そしてきっと、・・・心のどこかで、まだ、離れたくないと切に願っている卑怯な俺も。
「く・・ぼちゃん。俺は、俺は・・、ウソなんか・・」
『――だからさ、時任。』
それでもまだ言い訳がましくウソをつこうとする俺を、久保ちゃんの柔らかな声が諭すように遮って・・、
『今日の夕飯。・・・カレ―なんだけど、いいかな?』
思いもかけないことを言った。
「・・・・・・・・は?」
たっぷりと間があいて、出た間抜けな声。
・・・ちょっと、待て。なんで、そうなんだ?
今、俺は久保ちゃんと今生の別れを惜しんでるところで、俺はもう出ていくって、久保ちゃんの声をきくだけで胸が苦しくて切なくて、・・・会いたくて。
それなのに、そんなのがすべてウソみたいな、いつもの、日常の久保ちゃんの会話。
”また今日もカレ―かよ?”そんな風に答えられたら、またあの場所に戻れるのだろうか。
そんな甘ったるいことを考えてしまって、慌てて首を振った。
「くっ久保ちゃん、何言ってっ・・」
『怪我なら心配ないよ。もう治ったから』
「そ、んなわけねぇだろ!あんな傷で・・」
あんな大ケガして、死にそうで・・。青白いカオで深くまつげに影を落とす久保ちゃんを思いだして、ぎゅっと眉を寄せる。
「ウソつくな。」
『・・・治ったよ。』
「久保ちゃんっ!」
『――ウソでもなんでも。こんな怪我のせいで、お前に出て行かれるって思ったらさ、死ぬ気ですぐに治して見せるけど?』
「・・・・っ」
『俺にとっては、お前に去られることのほうが、何倍もイタイんだよね。・・・情けないことに・・』
「・・久保ちゃん・・」
少し萎んだ言葉が、久保ちゃんの本心を伝える。
俺は目の奥が熱くなるのを、必死にこらえて歯を食いしばった。
『・・それに、お前は記憶が戻ったら出ていくんでしょ?なのに、まだ”こんなところ”にいるんじゃ、出ていけないっしょ』
「っ・・・!」
そのとき、俺はやっと人の気配に気づいた。
・・いつからそこにいたんだろう。
ほんの、数メ―トル先。
狭い路地の入り口に立つ長身の人影、座り込んだ俺はそれを見上げて、凝視した。
なんでここに、とか。どうしてここが分かったのか、とか。驚きの声は言葉にならなくて。
「また”ココ”に捨てられてんなら、喜んで拾ってくけど?」
携帯でなく、目の前の口が、そんな皮肉めいた言葉を紡いで、笑みを見せる。
俺は未だ立ち上がることもできず、携帯を左手に握りしめたまま、久保ちゃんを見つめ返した。
・・・そっか。こいつなら、分かるよな。
どこにも行く場所が見つからなかった俺が、いつの間にか足を向けていた場所は。
久保ちゃんとの、・・俺のすべての、はじまりの場所だった。
不意に、目の前に差し伸べられた久保ちゃんの左手。
見上げると、”帰ろうか”そんな言葉が聞こえてくるような、優しい眼差しと出会う。
「お前が帰る場所は、一つしかないって、知ってた?」
―――いつかの、逆。
・・・・・・なんだよ。
これじゃあ俺がバカみてぇじゃん。
なんのために、人が一大決心したと思ってんだ。
そのとおりだよ。
俺の行く場所なんて、他にはなかった。
そんなの分かりきってた。
―――久保ちゃんしか、ないなんて。
それを本当は、心底嬉しいと思ってるなんて。
情けなくて、なんだか悔しくて、何か言い返してやりてぇと思ったけれど。
だけど、俺はうまくウソをつくこともできずに、掴んでいた携帯ごと、久保ちゃんの左手を強く握りしめた。
「・・・知ってるよ、バ―カ」
そんな強がりな言葉と一緒に。
イイ嘘も悪い嘘も、結局は全部ただのウソで。
必死で紡いだ偽りの数だけ、真実が胸を深く締め付ける。
それでも君が、ここにいてくれるのなら。
きっとそれが、ただ一つの”本当”のこと。
完