女の名前を聞いても分からなかった。
それもそうだろう。
俺にとっては、どうでもいい存在だったのだから。
・・・あの女だけじゃない。俺にとってはいつの間にか、あいつ以外は皆同じに見えている。
楠木桜子。
情報は少ないが、恐らくあの女だ。
この場合、恨まれているのは十中八九、俺だろう。
間違いなく、そうだと思う。
―――けれどもし、そうじゃなかったら?
『許さない』と耳障りに叫んだ声だけは、ぼんやりと覚えていた。
「――どうしたんだ?いきなりやる気が出たな」
奴らの入り浸っている場所を教えてくれと頼むと、松本は驚いたように目を大きくした。
それもそうか。俺は今自分の表情は分からないけれど、恐らく笑ってはいないはずだ。
きっと余裕のない顔をしているのかもしれない。
なぜかは分からない。
ただ、何か予感めいたものを感じた瞬間、タバコをもみ消していた。
正体不明の忌々しい重みが腹の底から這い出てきて、頭の中を覆い尽くそうとしている。
それが至極不快で、同時に背筋がひやりと冷えるような感覚に囚われた。
こんな感情は初めてで、説明がつかない。
―――思いついた言葉で言えば、これは・・・・”不安”だろうか。
「・・・事情が変わってね。知ってる情報をすべて話してくれる?」
淡々と告げると松本が眉を寄せた。不穏な空気を察知したのだろう、橘の表情からも笑みが消える。
「分かりました、私がお教えしましょう」
渡された資料にざっと目を通すと、さすがというべきかかなり詳細な内容が書かれていた。
奴らが集まる居場所、2年の不良グループの顔写真。
―――そして、女の写真。
それを確認した途端、出口へと向かっていた。
「おい、誠人!」
無言で部屋を出ていこうとする俺に、松本は珍しく戸惑った声で呼び止めた。
「まだ何か?急いでるんだけど」
「お前――」
すぐにでも駆け出したい衝動に駆られていたから、うっとおしく思いながら振り返ると、松本の言葉を遮り歩み寄ってきたのは橘だった。
「久保田君。貴方の好きにしてもいいと言いましたが、あくまで良識の範囲内でお願いします。貴方と、―――貴方の相棒の為にも」
そう告げる橘に、あの食えない笑みはなかった。
松本と橘は知っていたのだろうか。そんな疑問が過るが、すぐに頭で否定していた。
時任が巻き込まれるかもしれないと気づいていて知らぬふりをしていたとは、考えにくい。あの松本だ、恐らく今回は偶然のことだろう。
最悪の偶然だ。
俺が事件調査を頼まれたことも、時任をあの女の前に晒してしまったことも。
足早に校舎を駆ける。
時任が帰ってからどのくらい経っただろうか。
帰宅途中には街を抜ける。
あの女と会ったのも街中だった、そういえば雀荘に向かう途中にも待ち伏せされていた。
いつもならとっくに家に着いている時間だろう。
しかしそれを確認する連絡方法がない。
時任は携帯も持っておらず、確かアパートの一人暮らしだと言っていた。
場所も分からない。
―――どうして俺はあいつのことをこんなにも知らないのだろう。
あいつは俺を、知りたいと願ってくれているのに――。
得体の知れない不安だけが、今の俺を動かす原動力となっていた。