はじまりの合図【17】
時任の姿を見つけた時は、一瞬頭が真っ白になった。 殴られた顔、男に組み敷かれて肌をさらす時任の姿に、全身の血液が沸いた。 血の気を感じたということも初めてのことで、ああ、俺ってちゃんと血が通ってるんだなぁ、なんて改めてどうでもいいことを思ったり。 いやに冷静な自分が、そう割り切ってでもいないと今にも狂気に走ってしまいそうだったのだと、後から気づいた。 それでもなんとか普通の声を出せたのは、きっと間に合ったから。時任をちゃんと見つけ出せたから。 そうでなければ、俺は本当に何をしたか分からない。 「てめぇ!!」 不意をつかれた男達が殺気立つ。 時任は感心するほどの機敏さで拘束を逃れ、相手との距離をとっていた。 松本から聞いてはいたけれど、予想以上に喧嘩慣れしているようだ。 両側から俺と時任に挟まれて切羽詰まったのか、相手はそれぞれ武器らしきものを拾い上げて睨みをきかせてくる。 そんな中、俺は時任だけを見つめていた。 時任はひどい有様だった。顔の傷だけ見ても、派手にやられたのだろうと分かる。 それでもあいつは、やられたまま逃げ出すような人間じゃない。どんなに傷を負っても、痛みを恐れて尻尾を丸めるようなタマじゃない。 だからこそ俺は、惹かれるのかもしれなかった。 この美しくも、真っ直ぐな瞳に。 「―――お前等全員ぶっ殺す!!」 張りのある、時任の声が響き渡る。 猫のように毛を逆立てて物騒なことを口にした時任に、知らずに口角が上がる。 うん、それには賛成。 だけど、その前に。 「――時任、これ」 「え、・・・なんだ?」 ひょいと奴らの頭上を越えて時任の手の中へ投げたもの。 それは橘副会長から預かったもの。 そして、今俺の腕にもあるものだった。 「腕章。こうやって身につけておけば、大概のことはうちの生徒会長サマがなんとかしてくれるって」 「・・・生徒会執行部・・?」 左腕を見せると、時任は手元と俺に視線を巡らせてそこに刻まれた文字を読む。 「そう、ホントは肩慣らしのはずだったんだけどね。本格的に暴れることになりそうだから、もらっておいた。だから時任――、好きにやっちゃって?」 にやりと笑うと、瞬いていた時任の瞳がみるみるうちに輝きを増す。 ぐいっと強引に左腕に腕章を通して、ニッと笑みを返してきた。 「―――おうっ!!」 青ざめる不良達とは対照的に、まぶしいほどの笑顔だった。 勝負は圧勝。 それはそうだ。自由を奪わなければ多数でも勝てる見込みのなかった相手だ。 殴られたとはいえ、時任は水を得た魚のように奴らの間をくぐりぬけ、一発も受けることなく全員をその場に伸した。 俺はといえば、その間何もしていない。 まぁ出番がないといえばそうだけど、それよりも手を出したら本当に加減が効きそうになかったから、自重しておいた。 そして自分でやり返したいだろう時任の意志を汲んでのこと。時任はイキイキとして拳をふるっていたから、だいぶ鬱憤も晴れただろう。 ――――そしてその代わりに、俺にはやることがある。 「く、久保田君・・っ」 物陰に隠れていた相手の背後に立つと、彼女――楠木桜子は、ビクリと肩を疎めて振り返った。 まさかこんな展開になっているとは思わなかったんだろう。様子を見に来てみれば乱闘になっていて、ほぞをかんでいたようだ。 そんな女に一歩近づいて、のぞき込む。 「ねぇ、アンタさぁ、こんな真似するほど俺のことが好きなわけ?」 そう尋ねると女は狼狽していたが、「・・そうよ」と観念したように顎を引き唇を噛んだ。 「そんで憎いわけだ。かわいさ余って憎さ100倍ってやつ?――じゃあさ、なんで時任を襲った?」 「・・・そっ、それは・・・」 「憎いなら俺を憎めばいいじゃない。俺が時任を選んだっていうだけなんだからさ」 分かってる。それが許せないんだろう。 自分以外の相手に本気になることが許せない。 至極まっとうな、自己中心的な人間らしい感情だ。 俺には全く理解できなかったものだけれど、最近ではそうも言ってられない。こと時任に関しては、俺も彼女と似たようなものなのかもしれない。 放したくない。傍にいたい。 自分以外の目に触れさせたくない。もし、これから先時任の隣にほかの奴がいるのだとしたら、俺も相手を殺したいと思うのかもしれない。 「・・・しょうがないか」 「・・・え?」 俯く彼女にため息を一つ吐いて、ポケットに突っ込んでいたサバイバルナイフを目の前に突き出すと、女の顔色が変わる。ナイフはさっきの男のものだ。 恐怖に歪めた表情に、ああ、違うよと首を振った。 「そんなに憎いならさ、これで俺を刺してもいいよ」 「―――っ!?」 絶句する女の手を取り、刃を自分の方へ向けて両手で持たせる。その上から握った状態で言った。 「ほら、ど―ぞ。殺したいならここ、胸ね。んで、じわじわ追い込みたいなら、腹がいいかな。一気にドバ―っと出血多量に陥るには首の頸動脈あたり、――分かる?」 「ひ・・っ」
首を切るのも刺すだけじゃ難しいからなぁ、と女を見下ろす。半信半疑だった女もここまですれば俺が本気だと悟ったのか、見てわかるほど青ざめていた。
「―――久保ちゃんっ!?」
背後から時任の声が聞こえる。様子に気づいて戸惑いの声をあげたようだ。 まったく、さっさとしてくれないから。 「ほら、力入れてみれば?憎いんでしょ?」 女の体がこわばって手を引き、そのせいでちょうど腹の当たりに刃先があった。 彼女の手にはもうほとんど力は入っていなかった。 それでもその手を握ってグッと力を入れると、先端がめり込み、ちくりとする。大した痛みはなかった。そのわりにじわりと大きく血が広がり、白シャツを赤く染めた。 「ひっ・・、や、いやぁっ・・!」 彼女は首を激しく振りながら、青ざめて涙をこぼしていた。 人を使って他人を傷つけることができても、自分の手を下すことを知らなかったのだろう。 それでも俺は、許せない。 時任を傷つける羽目になった、―――自分が許せない。 「久保ちゃん、やめろ!!」 ナイフを握る手にぐっとさらに力を込めたとき、時任の鋭い声が耳に響いた。 目の端で時任が眉を寄せているのを捉えて、ああ、怒っているなぁと他人ごとのように思った。 これまで見たことが無いほど怖い顔で睨まれて、瞬間、ふっと力が抜ける。 彼女の手からナイフが落ちて、地面に転がった。 「あーあ・・、せっかくのチャンスだったのにね」 ため息を一つ。 落ちたナイフを軽く蹴り、口端を引き上げて女を見据えた。 「じゃあ、今度は俺の番ね」 一歩、足を踏み出すと、女がおびえたように肩を揺らす。 「俺もさ、自分のものに手を出されると不快なんだよね」 「・・ひ、・・い、いや、ゆ、許して・・っ」 じりりとまた足を進めると、その分彼女は後ずさった。 そうして壁際までの数メ―トルほどを追いつめて、白い肌が青ざめる様子を間近で眺めた後、 ―――耳元で囁いた。 「次は、ないよ?」と。 がくがくと壊れたゼンマイのように首を縦に振る彼女を見てからようやく、体を離す。途端、女はがくりとその場に膝をついていた。 振り返るとじっと眉を寄せてこちらをにらんでいる時任がいる。 「――終わったんだ?早かったね」 近寄って微笑むと、時任は顔をしかめたまま言った。 「・・・あんな奴ら余裕だっつ―の。っていうか久保ちゃん、血ぃでてるぞ」 「ん?・・ああ」 右の腹部に赤いシミが広がっている。少しジンジンとするような気がしたけれど、痛みも出血も大したことはない。 「こんなのすぐ止まるよ。大丈夫」 にっこりと笑うと、時任はようやくホッとしたように「バ―カ」と息を吐いて、苦い笑みを浮かべていた。 その顔を見た瞬間、俺もようやく指先に血が通ったように思えた。