はじまりの合図【18】
久保ちゃんの腹の傷は浅いものだったらしく、血はすぐに止まったようだ。
・・・っていうか、普通あんなことするかよ。刺してもいいよ、ってハイそうですかって刺せる奴なんかいるかっての。
――でも、あのまま久保ちゃん、本当に腹に突き刺しそうで怖かった。たぶん、女が刺す気だったら久保ちゃんは逃げなかったと思う。
思わず止めに入ったけど、俺を見る目は相変わらずケロリとしていて、なんだかドッと気が抜けた気分だ。
まだまだ久保ちゃんのことを理解するには、時間が必要なのかもしれない。
それからすぐ久保ちゃんは携帯でどこかに連絡をとっていた。
相手はたぶん松本で、さっき俺が伸した男たちについて報告をしているようだった。
話を聞けば久保ちゃんがここに来たのは、執行部としての任務だったらしい。
松本と橘に肩慣らしだと進められ渋々受けた任務だったけど、あの女が関わっていると知りイヤな予感がしたのだという。
俺はそれで助けられたというわけだけど、動物的な勘で俺の危機をかぎつけた久保ちゃんはやっぱり凄いとしか言いようがない。
その日、俺は久保ちゃんのマンションに行った。
比較的近い場所に久保ちゃん家があったからで、「そんな姿で帰れないでしょ」と久保ちゃんが誘ってくれたのだ。
なにがびっくりかっていうと、この広さ。
俺と同じく久保ちゃんも一人暮らしをしていることは知っていたけど、こんな広い部屋に一人で暮らしているとは思いもしなかった。
部屋が何個もあるしフロ―リングだし。物は少ないけど、寝室とリビングが分かれているのがスゴい。
そしてなにより、風呂がある。
服も体も汗と汚れでボロボロだったから当然の流れで。俺はありがたく使わせてもらうことにした。
しみる傷を我慢しながら汗を流して、ためてくれた湯船に浸かる。足が伸ばせる広さに感動しながら、こんな風呂に毎日入れるなんて最高だな、としみじみ思った。
久保ちゃんって金持ちだったのだろうか。・・あんま持ってなさそーだけど。
風呂から上がると、意外と几帳面にバスタオルと久保ちゃんの服が畳んでおいてあった。貸してくれるってことだろう。
当たり前だけど久保ちゃんの上下スエットはサイズが大きくて、ちょっとむかつきながら袖を通す。
そのとき、あ。と思った。
ふわりと久保ちゃんの匂いが香ったのだ。洗剤と、僅かに煙草の匂い。それに包まれて、俺は訳も分からずドキドキとした。
「――じゃああの女、退学になるのか?」
広いリビングのソファに腰掛けて、きょろきょろと部屋を見回しながら声をかけると、久保ちゃんは冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを持ってきてくれた。
まぁ、それも自業自得ってやつだろうな。久保ちゃんのことを好きでおかしくなっちまった女に対しては、かわいそうに思わないでもないけど。
そんなことを考えていると、救急箱を持った久保ちゃんが俺の目の前に座った。
「すぐ乾くって」
「風邪引くから、ほら」
「わっ、ちょっ・・」
子供じゃあるまいし。こんなに人に甘えたことなんかない。
それからも傷を見せろと傷薬を手に甲斐甲斐しく世話を焼いてくるから、俺はなにをするでもなく手持ち無沙汰に、まるでペットにでもなった気分だった。
「ちょっと我慢してて」
さっきまで気を張っていて痛みを感じなかったけれど、消毒液のせいか今になってあちこちヒリヒリしてきた。
今後生徒会を通して学校からはキツイ処分が下るだろうと松本が話していたらしいからいい気味だ。
対してすっきりと暴れた俺には、一切お咎め無し。(当然だけどな)
あの腕章のおかげで俺は執行部の権限の下、暴力は制裁という正義になったわけだ。
「うーん、そうみたいねぇ。半ば橘副会長に押しつけられた感じだけどね」
久保ちゃんのも置いてあって、まるでお揃いみたいだった。
いまいち何をするのかよく分からないけど、久保ちゃんと一緒ならなんでもできる気がした。
さっきヒヤヒヤさせられた腹いせだ。
「ごめんね、時任」
あまりのタイミングの良さに首を傾げる。
「それは久保ちゃんのせいじゃ・・」
「俺のせいだよ」
まぁ、確かにあの女については久保ちゃんが悪いのかもしれないけど、俺だって自分で蒔いた種ってこともあるし・・。
責任感じて刺されようなんてさ、久保ちゃんはやっぱりバカだ。
もし本当にあの女が刺してたら――、今度は俺が自分を許せねぇじゃん・・。
なんだろう、これ。何かに似て・・――ああそうだ、犬だ。さっきまでは俺がペットみたいだったけど、こうしてみると大型犬が飼い主に怒られて落ち込んでいる。
―――そんな場面が思い浮かんで、くくっと噛みきれない笑みが漏れた。
今日から俺たちは執行部のコンビだ。
そしてきっと、久保ちゃんの全部を知っていいのは、俺だけだ。
きっと、俺たちはとっくに”友達”なんてものを越えているんだと。
「・・・・・」
俺の言ってることが分かったのか、久保ちゃんはそれ以上謝りはしなかったけれど、少し嬉しそうに見えた。
たぶん、見えない耳はピンと張って、大きなフサフサのしっぽをゆったりと左右に揺らしているに違いない。
18のAへ続きます
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