初恋の人。

 




『僕がずっと、貴方のそばにいますよ。』


それは昔の、幼い記憶。

忘れたくとも忘れられない、

僕らの、最初で最後の約束だった。



****************



「・・・・・・・」


高校受験まであと1年といった学校の帰り、いつものように足を向けた塾でのこと。

もうすぐ授業がはじまるというのに、俺は教室の手前、廊下で一人、無言で立ち尽くしていた。・・というか動けずにいた。


その目線の先にあるのは、大きく張り出された掲示物。―――先日行われた模試の順位表だ。

私立の中学に通ってはいたが、それほど学力向上に力を入れていないのか、もしくは差別的な要素を避ける道徳観念からか、学校では成績順を公にすることはない。だが有名塾と呼ばれるここに通ってもう2年以上経つのだから、順位表が珍しいといったわけでもなかった。

かといって、自分の成績にひどく落胆しているといったわけでもなく。・・まぁ、いつもの場所にあるはずの俺の名前が、少し珍しい変動を見せていることは確かだが。


―――思いも寄らない、忘れられない懐かしい名前が、いつもの俺の指定席に、堂々と書かれていたから・・・・。



中学に入った頃から通うこの塾は、教育熱心な父親に勧められたとあって、有名大学入試を視野においたそれなりにレベルの高いところだった。

年の離れた兄達もここに通い、それぞれ名だたる高校、大学へ進学している。元々兄たちと比べれば出来の悪いだろう末息子にも、それを見習わせようという父親の意を組み、半ば強制的に通わされてるといったところだ。


・・・首席じゃないと、父さんに合わせる顔がないな。


順位表を見つめながら、そんな思いが少しだけ頭をよぎる。

目標の高校の合格判定とそれを踏まえたクラス替えともあって、俺もそれなりに努力したはずだった。

しかし、これではかなうはずもない。俺の名前”松本隆久”を押し退けて首席に輝いた人物の点数は、全教科満点――。あり得ない点数だ。

・・・いや、もし、この人物が、俺のよく知るヒトだとしたら・・・。


瞬きもせずに、穴があくほどその名前を見つめていると、ちょうど教室に向かっていた塾講師に声をかけられた。


「お、松本。残念だったな―、ここ1年ほどは負けなしだったのにな。いや、でも仕方ない。先日入校したばかりの生徒にクラス分けを含めてテストを受けてもらったんだが、これが秀才でな。お前の成績が下がったわけではないんだ」

「・・・そう、みたいですね」


目線はそのままに、ぼんやりと答えながらも、俺の頭の中は「1位」に書かれたその名前だけにあった。


――――――橘、遙。

女のような名前だと思った。・・初めて聞いたときは。

遠い記憶をたどって浮かぶ、やけに大人びた笑顔。


「橘・・・、あいつ、か・・?」


同一人物じゃなければ、おかしいだろう。珍しい部類に入る名前だという理由のほかに、先ほどからドクドクと早鳴る自分の鼓動に胸騒ぎを覚える。

教室へと消えた塾講師に気づかないほど考え込んでいたとき、その瞬間は不意に訪れた。


「―――隆久君」


名前を呼ばれてビクリと肩が疎みあがった。

咄嗟に振り返ることができず、俺は正面を睨みつけたまま。予感が確信へと変わっていく瞬間。

それはなんだか怖いもの見たさのような心情にも似ていて。

それもそうだろう、聞き覚えなんてあるわけがないのだ。

あれから5年近く経っているのだから、俺の名を呼ぶ声などで、聞き分けなんかできるはずもなかったのに。

なのに・・・。


「お久しぶりですね、隆久君」

「――――橘・・・」


思った通り。振り返った先には、あのころと全く変わらない笑顔があった。大人びて見えた顔つきは、今でもまだ少年の部類に入るはずなのに、至極落ち着いていて、穏やかで。

俺はただ、驚きに目を見開き、懐かしくも美しい微笑みを、じっと見つめていた。



************



橘と出会ったのは、まだ小学生の頃。同じ学校だったというわけではなく、食事の招待を受けて両親に付いて訪れた、橘の屋敷でのことだった。

橘と俺の父親は元々仕事関係の知り合いだったらしいが、度々食事に招かれたり、もてなしをしたりと、親しいつき合いを重ね、同じ年だった橘と俺は必然的に二人で過ごすことが多くなった。


俺は、年の離れた兄がいるせいか、昔からどこか達観した部分があって、幼いクラスメイト達を見下ろしている節があったと思う。それでも孤立することなくそれなりに仲良く合わせてはいたのだが、橘に出会って、初めて自分と同じ年の友人ができたと思えた。


橘は俺よりもむしろ上に見えるほどで、立ち居振る舞いや口調も小学生とは思えないほど落ち着いていて、あどけない風貌で大人びた笑みを浮かべる、そのアンバランスさが魅力的な少年だった。

父親が「遙君はIQが高い秀才だよ」と話しているのを聞いた。おそらくそういった面で一般的な子供よりも卓越していたのだろうと思う。

そんな橘から見れば俺も至って普通の子供だったのかもしれないが、それでも俺にとって橘の隣は、これ以上ないほど居心地の良いものだった。

いつの間にか、橘と過ごす日々が当たり前の日常になっていて。それほどまでに、俺たちはいつも、近くにいた。


橘家の広い庭には青い芝生が茂り、二人でキャッチボ―ルをした後はそこに寝転がるのが気持ちよかった。

その日も、少し体を動かした後、俺たちは芝生に寝そべって午後のひとときを過ごしていた。

青い空を見上げるように仰向けになる俺の視界に、太陽の光を受けてキラキラと光る橘の茶色い髪と、日を受けて白く輝く滑らかな肌。目に留まったのは橘の端正な顔立ち。


「橘って、ハ―フみたいだな」

「そうですか?」

「ああ、なんか目鼻立ちもハッキリしてるし。・・うん、キレイだ。」


白い肌に色素の薄い髪、俺よりも少し低い身長の橘は、俺よりもずっと華奢で。何よりも柔らかく細められる茶色い瞳がキレイだと思った。


「両親共に純日本人ですよ」


それは俺もよく知っている。橘の母親は優しい微笑みを見せる、とても綺麗な人だった。

それによく似た橘の笑顔が、俺は好きだった。


「でも、ありがとうございます」


にこりと微笑む顔は大人びて、とても同じ小学生とは思えない。加えてこの流暢な敬語使い。何度敬語をやめろと言っても頑なにやめない橘に俺はもう気にしないことにしていた。

橘の微笑みを受けて、なんだかくすぐったいような恥ずかしさに勝手に頬が熱くなる。

そんな俺を見つめていた橘はさらに目を細めた。


「・・・隆久君は、可愛いですね」

「――カワっ!?そ、んなことあるわけないだろっ!」


思わぬ言葉に驚いて、言い返す声が大きくなったが、橘はごく当然だと言わんばかりに目を丸くして言った。


「どうして?貴方はとても、可愛いですよ。」

「っ――」


さらに顔が熱くなる。可愛いなどという言葉は女に使うものであって、俺のような日焼けした健康的な子供に使うものじゃない。

それでも橘は本心であると分かるような、まっすぐな目で俺から目を逸らさなかった。


「僕は可愛い貴方が、とても好きなんです。」


とんでもないことを言われたと思った。好きという言葉がクラスメイトが話すようなことではなく、なぜか子供ながらに、もっと重要で、真剣な言葉であるような気がしたのだ。


「――俺も、好きだ。」

「隆久君・・・」


口をついて出た言葉に、一番驚いたのは自分で。少し大きく見開かれた橘の瞳が、次に穏やかな微笑みに変わるのを見ながら、俺は自分の言葉に嘘がないことを、ようやく自覚した。


好きだった、とても。

たぶん、俺の初恋。


俺の母親が姿を消したのは、ちょうどそんなときだった。死んだわけではない。ただ、出ていったのだ。

まだ子供の俺の制止を振り切って、顔をくしゃりと歪めた母親は、涙を流して別れを告げた。


”ごめんね、隆久。お母さんはもう、ここにはいれないの。お父さんは別の人を見ているのよ”


涙に濡れた顔を背けて、母は出ていった。

俺は捨てられたのか、子供ながらにそう理解した。悲しみがこみ上げて涙が溢れたけれど、寂しくはなかった。

だって、俺には大事な人がいる。友達よりも兄よりも、ずっと近くに。

母親のことを話すと、橘は珍しく悲しげに目を伏せた。笑ってほしい、そう言うと橘はあの優しい微笑みをくれた。


「僕がずっと、貴方のそばにいますよ」


胸が熱くなるほど、幸せな言葉とともに。




 

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