5年振りの再会を果たしたあのとき、始業のチャイムが鳴っても、時間が止まったように動けない俺に、橘は「教室へ行きましょう」とだけ言って。テストだけ受けていたらしく今日が初受講だった橘は、クラスの好意的な視線を受けながら、再び俺に「帰り道は同じ方向でしたね」と話しかけてきた。
それからは何も言葉を交わすことなく、二人で家路を歩いた。
橘は背も伸びて眼鏡をしているせいか、昔よりも知的な凛々しさがあった。美しい風貌はますます磨きをかけ、すれ違う人が思わず振り返るほど、人の目をひいていた。
思いも寄らぬ二人の時間に、夢でも見ているのではないかという非現実な感覚が襲う。
辺りは真っ暗で、静かな二人の歩く音だけが耳についた。沈黙を破ったのはやはり橘だった。
「本当に久しぶりですね、隆久君。お元気でしたか?」
「・・・ああ、橘は?」
「ええ、変わりなく。気候が違うことをのぞけば、日本とも変わりないですからね」
「そうか・・」
橘はこの5年間イギリスにいた。先週、日本に戻ってきたばかりだという。
留学というよりも親の仕事関係上、家族で引っ越したという形だが、橘が突然いなくなったあの当時、そんなことなど何も考えられないほど落ち込み、そして橘を恨んだ。
『ずっと一緒にいると、言ったじゃないか』
母を失くし、橘を失って。
裏切られたと、そう思うしか、顔を上げる手段がなかったのだ。
「・・なぜあの塾に?編入した中学はここからは遠い名門校だろう?」
「それは、貴方がここにいると聞いたからです」
「・・・・!」
「ただ、僕は貴方に会いたくて・・」
その言葉を鵜呑みにするには、5年の空白は重すぎた。橘を忘れるために、裏切られたのだと自分に言い聞かせてきた時間は、戻ることはない。
そんな感情は、冷たい言葉となって突きつけられる。
「・・・橘、母上はご健在か?」
「ええ・・。一緒に帰国しています」
「そうか、では、父は知っているのだろうか」
「―――隆久君・・」
橘の顔色が少し変わったのを見て、ドクリと胸が締め付けられる。それでも平静を装い、顔に出すことはなかった。
――俺たちは知っていた。
母が出ていった理由が、父だけにあるわけではないということを。
父が、母以外に愛していた女が、・・・橘によく似た女性だったということを・・・・。
母が出ていってから、偶然聞いてしまった父たちの睦言。
”私のせいで、ごめんなさいっ・・、貴方を愛してしまったせいで・・”
橘の家で、俺の父と橘の母が抱き合い、橘の母親は泣いていて。幼いながらに、それがどういうことなのか、理解した。偶然その場を目撃した俺と橘は気づかれないようにその場を後にして。
その後すぐに、父親の仕事の都合で海外に一家で渡った橘。それは本当に仕事の都合だったのか。今になれば、何かしら違う理由もあったのだと推察できる。
橘もそれは分かっていたのだろう。自分の母親が、自分には、家族の顔を見せながらも、実は他の男を愛していた。それはきっと、大人びた幼い橘をひどく傷つけたに違いない。
それなのに、俺は今、冷酷なまでに無表情を張り付けて、橘に冷たく言い放っている。
「どちらにしろ、もう俺には関係のない話だ」
「・・隆久君・・」
「そうだろう?君にとってもよい思い出ばかりではないはず。俺も来年は受験だ。今更あのころのことなど思い出したくはない。だから・・・、橘、俺にはもう話しかけないでくれ」
「・・・・・・・」
言葉を失った橘の表情には目もやらず、その場を後にする。きっと今顔を見てしまえば、また深く心に残ってしまうことを恐れて、震える指先をぎゅっと握りしめて。
もう、俺たちは関わるべきじゃない。互いの親のためにも、―――自分のためにも。
それが一番良いのだと、長い空白の時間が俺に決断をもたらした。
「橘・・・・」
少し肌寒い夜の空気に、一人言のように名を呟く。
目を閉じれば、浮かぶ、美しく成長した姿。
―――ずっと、会いたかった。
それは言葉にはならず、誰も受け取ることのないまま。俺はひっそりと、胸の奥へ飲み込んだ。
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「おかえり、隆久」
「・・・ただいま」
家に帰ると、珍しく父も帰っていた。会社を経営する社長である父はいつも忙しく、深夜に帰宅することもしばしばだ。二人の兄は家を出ており、父との二人暮らしに慣れていた俺は、明かりのついた家に帰るのは久々だとぼんやり思った。
昔、5人で住んでいた家は、二人には広すぎる。橘がいたころはまだ母もいて、もっと家族らしい家だった。
こんな風に感傷に浸ってしまうのは、今日橘に再会したせいに他ならない。
父は、橘たちが帰国したことを知っているのだろうか?
もし、知っているとすれば、それは・・・。
そう思えば自然と口をついて出た。
「・・父さん、今日、橘に会った」
「!―――遙君か?」
咄嗟に振り返った父の表情は驚嘆していて、どうやら知らなかったらしいと分かる。父はその後表情を和らげて笑った。
「そうか、遙君が帰ってきたのか・・。元気だったか?」
「・・ああ。」
「そうか、良かった。5年ぶりか、橘君らも元気だろうか」
「・・・・・」
橘君、それは橘の両親のこと。
・・・父さんが知りたいのは、橘の母親のことだろう?
そう考えて、視線は自然と冷ややかなものになる。
母が出ていったのも、橘がいなくなったのも。もとはといえば、父が橘の母親を選んだからだ。
それでもこの5年、父を恨んでも恨みきれず、父の望むように勉学にも励んでいたのは、結局は一人ぼっちになった、寂しげな姿を見せつけられているからなのかもしれない。
―――やはり、今となっては橘と関わらない方がいいのだろう。
橘を遠ざけたのは正しい判断だったと思う。父が橘の母とは終わっていても、よけいな燻りは起こさないほうがいい。
分かっている。俺はもうあの頃のようなガキではない。
『貴方に会いたくて・・』
―――・・
ふと思い出した切なげな声が、胸の奥をズクリと痛めつけた。
あのころよりもずっと、大人になった橘の笑みが、深く胸の奥にしまっていた傷に、温かく染み渡る。
長い空白を覆してしまうのではないかと思うほど、それはもう優しく。
――ダメだ。何をいつまでも感傷に浸っている。5年も経って、橘は変わらず俺を見てくれた。それだけで、・・・それだけで十分じゃないか。
そうして俺は、いつものようにしゃんと顔を上げた。
そうやっていつも、自分を奮い立たせてきたのだから。
翌日、塾へ行くと、俺は橘の姿を目の端で捉えながらも目を向けることはしなかった。
近づくなと、自分から言ったのだ。
授業が終わっても橘はこちらへ近寄ろうとはしなかった。俺はそのことに少し安堵し、教室を後にする。
自然と帰りは同じ方向になってしまうから、少し時間をずらそうかと考えてコンビニに立ち寄った。
立ち読みしながらふと顔を上げたとき、遠くに橘が見えた。数名の男子に囲まれるようにして歩いている姿。
同じ塾の生徒たちだ。昨日入ったばかりだというのに、もう友人ができたらしい。
昔から誰にでも優しい上、人の目を惹く容姿であるからそれも仕方ないのかもしれない。
それでも少しばかり、腹の中に不快なものを感じながら手元の雑誌に視線を落とす。
たった2日でこれなのだから、この5年の間に橘にはたくさんの友人ができたのだろう。恋人などもいたのかもしれない。
それはごく当然のこと。
そうやって、空白の時間は比例して、俺たちを隔てる距離となるのだから。