橘と再会して1ヶ月、週4日通う塾には必ず橘の姿があった。中学からは遠い距離、毎日の徒歩通いはいくらなんでも大変だろう。
俺に会うことが目的なら、もうやめたらいいのにと思う。
あれから一度も、橘とは会話していない。
それが俺の望みなのだから何も考えることはないはずが、気づけば俺の意識は常に、橘にあった。
3日前にあった試験ではまた橘に負けて2位だったことや、有名私立高校の合格判定が余裕のA判定であるらしいこと。
言わずとしれた才色兼備であるせいか、この1ヶ月で橘のファンクラブまで出来ているらしく、スト―キングまがいのことをされているとか。さすがにそれはと思うが、小さい頃から様々な武術を勤しんできた橘であるから、大丈夫だろうが・・、などとそんないらぬ心配をしたりして。
他人の噂話に興味などなかったはずが、橘の事に関すると自然と耳に入ってくる自分がイヤになる。
「松本、確かお前橘と初日に話してたよな?」
「・・・それがどうした?」
「いや、仲いいのかなって思ってさ。」
同じ塾生の高木がそんなことを聞いてきた。同じ塾というだけで、ほとんど喋ったこともない相手だ。
今頃そんなことを聞いて何の意味があるのか。あれから俺たちは一言も交わしていないというのに。
「別に。昔顔見知りだっただけだが、今は全く接点はない」
「そっか。いや、あいつさ、男女問わずかなり人気あるじゃん?俺の友達がかなり入れこんじまって、いろいろ情報集めろってうるせ―んだよ。まぁ、知らね―んじゃ仕方ないな、悪かったな」
「・・・いや」
ズクリ、また腹の中で何かがイヤな音を立てた。
その音はグルグルと体の中で渦巻き、黒い波紋を残していく。それをなんと呼ぶのか、気づきたくもない。――いや、気づいてはいけない。
せいぜいしらばくれて、傷つけばいいのだと自分に悪態をついて目を逸らした。
教室を出た後、日課になったコンビニへと足を運んで、雑誌を読みつつ、意識は少し遠い道沿いへと向かう。
しばらくして現れた橘は、今日も一人ではなく、数人の男子と共に歩いていく。
その取り巻きの中に、高木の姿を確認して、直接本人に聞くことにしたのかと思う。友達のためにご苦労なことだ。
・・・橘に入れ込んでいる奴とは、男だろうか・・?もしそうだとしても、人に頼むくらいだから同じ塾の奴とは思えない・・・。
そんな思考を振り切るかのように小さく頭を振る。
もう考えまい、そう決めて家路に向かう。
先を歩いていく橘らの背中は見えなくなり、いつもの公園を通りすぎようとしたそのときだった。聞き覚えのある声が、俺の足を止めた。
・・この声は・・・。
「――それで、お話ってなんでしょう?」
「悪い、こんなとこ引っ張ってきちまって」
「いえ、大丈夫ですよ。予定はありませんし、他の皆さんも先に帰ってもらいましたし。・・何か相談事ですか?」
「・・・・まぁ、ちょっと」
間違いなく、橘の声、と多分、高木の声だ。
薄暗い上、公園の木が目隠しとなって姿は確認できないが、おそらく二人で公園のベンチにでも座っているのだろう。
二人で何の話なんだ・・?
足を留めたまま、一瞬迷う。相手が高木であるのなら、橘を好きだというヤツの為に情報収集といったところなのだろうが。夜の公園で二人きりなんて・・・。
そこまで考えてかぶりを振る。
―――いや、俺には関係ない。
・・・帰ろう。
このまま通り過ぎれば、気づかれもしないだろう。余計な事に首を突っ込むべきじゃないと、足を踏み出したとき、思いもしない言葉が耳に届いた。
「俺さ、実は橘に一目惚れなんだよね、いや、マジでさ。こんなこと言ったら引かれるかもしんねぇけど、俺とつきあってくれねぇか?」
あまりの驚きに俺は一歩足を踏み出したまま、ピシリと固まってしまった。
高木が言っていたのは、友達でもなんでもなく、自分自身のことだったのか、と今更ながら納得して。
「・・・ダメ、か?」
切実な声が聞こえてきて、俺はもう通り過ぎるなんてこともできずに、立ち止まっていた。息をひそめて、間抜けにも微動だにできず、固まったまま。
盗み聞きなんて姑息な真似、大嫌いなはずなのに。橘がなんと答えるのか、そればかりがひどく気になって。
ドクドクと大きく心臓が鳴り、ぐっと拳を握りしめる。
「・・・すみません、高木君。お受けすることはできません」
――――!
小さく間を空けたあとに、聞こえてきた橘の静かな声に、―――ゆっくりと手の力が抜けた。
「・・好きなやつ、いるのか?」
そんな高木の声に、思わず橘の返答を待ってしまう自分が恨めしい。俯いたまま聞き耳を立てていると、思わぬ言葉が橘の口から飛び出した。
「・・ええ。もう5年以上、想っている方がいます」
――思わず、息をのんだ。目を瞠り、頭の中で繰り返す。
”5年以上”、だって・・? その時間が示すものは、疑いようもなく・・・。
「5年も!?それで、相手はそのこと・・」
「恐らく、分かってくれているとは思いますが・・」
「つき合ってね―んだろ?それって酷くねぇか。気づいてて知らぬふりってやつ?」
「いえ、彼が悪いわけではないんです。むしろ彼の手を離してしまったのは僕ですから・・」
・・胸が、張り裂けそうだった。
あのとき離れていったのは、橘のせいでは、決してないのに。寂しさや辛さを忘れるために、裏切られたのだと思い込もうとどれだけ頑張ってみても、橘が望んで俺の手を離すわけがないと、分かっていた。
橘が悲しげに微笑む姿が目に浮かんで、ぐっと奥歯をかみしめる。
「今は彼の姿を見れるだけで、僕は幸せなんですよ」
穏やかな優しい微笑みが、目を閉じていてもそこにあった。腹の中で渦巻いていた黒い影は跡形もなく消え去り、代わりに熱いものが胸の奥からこみ上げて。
目の奥がじんわりと熱を帯びた。
橘・・・っ・・、
こんな想いを口にできたら、どんなに楽だろう。
ただ胸の奥からこみ上げてくる想いは、苦しくて切ないばかりで。
できることなら、橘の目の前に飛び出して、すべて吐き出してしまいたい。
奥深くに渦巻く黒い影も、熱い胸の内も。
橘、俺もずっと、忘れられなかった。
ずっと、お前に会いたかったのだ―――、と。
**********
「なんか面白いカオになってるね」
そんな言葉にカオを上げると、隣を歩いていた俺よりも頭1つ分背の高い男が、口端をあげてこちらを見ていた。
「・・なんのことだ?喧嘩売ってるのか、誠人」
「だって最近ぼ―っとしてるみたいだし?執行部の鬼とも呼ばれるアンタが、そんなとこに傷こさえたりしてさ。なんかいつもと違うよねぇ?」
「・・別に、変わりないが」
ニヤニヤと人をおちょくるような笑みを浮かべている男は、この中学で俺が所属している執行部での相方、久保田誠人だ。
少し睨むようにして、何やらよからぬことを考えているだろう、そのカオを見上げながら、先ほど公務中にこさえた腕の傷を手で押さえる。
生徒のカツ上げを取り締まり中、殴りつけてきた男の手が少し掠ったためについた傷。
執行部として風紀を取り締まるようになって2年、かすり傷とはいえ、それは珍しいことだった。
「少し気を抜いていただけだ。それよりも、他人に興味のないお前が俺の変化を気にしてくれるとは珍しいな」
「まぁ、そりゃあ相方だしね。今まで見たことないよ―なカオされると、やっぱ気になるじゃない?」
自然と身に付いた無表情が、いつの間にか執行部の鬼とも呼ばれるほど周囲と距離のある俺にとって、誠人は学校での唯一の友人と呼べる奴だ。かといって、執行部以外でのつきあいはないに等しいのだが。
そんな相手からの意味深な指摘に、目を丸くした。
「見たことないカオとはなんだ?」
「あれ、やっぱ無自覚?へ―え、じゃあ最近やたら表情が険しかったり、かと思えば優しかったり、何かを想いつめるようにぼんやりしたり、まるで恋に悩む乙女みたいな表情してるってコト、全く気づいてないんだ?」
「――だっ、誰が恋に悩む乙女だっ!!」
―――おちょくられている。そう分かっていても予想もしない言葉に、思わず動揺して大きな声をあげてしまった。
やたらとカオが熱く、もしかしたら頬が赤くなってるのかもしれない。そう思うと居た堪れなくなってカオを背けた。
そんな俺が意外だったのか、誠人が驚いたように目を大きくした。
「へぇ、図星・・ねぇ?」
「だからなんの話だ!まったく、珍しくよく喋ると思えばくだらないことを・・」
ぶつぶつとぼやきながら、さっさと巡回をすませるべく足を早めて廊下をズンズンと歩いていくと、後ろからのっそり付いてきた誠人が、穏やかな声をあげた。
「・・・仮面を外す場所は、必要なのかもね。」
「なに・・?」
振り返った先にある表情が、楽しそうな声とは裏腹にどこか真剣に見えたせいか、ふと、足を止めてしまう。誠人はそんな俺に小さく笑って。
「アンタにそんなカオさせる人、貴重ってコト。せっかくだからちゃんと捕まえておかないと、ね。」
「・・・なにを・・」
「いいねぇ。・・・まぁ、俺にはそういう場所、見つけようもないし。必要も、ないんだけど。」
「誠人・・・、あ、おい、待てどこへ行く!」
「雀ソ―行くんで帰りま―す。あとはよろしく〜」
「まったくお前は、いつもいつも・・・」
誠人ののんびりとした背中を見送りながら、聞こえるようにぼやく、後ろ手にヒラヒラと手を振る男に小さくため息を吐いた。
柔らかいようで、人との関わりを避けるように一線を引いている誠人は、どこか自分と似ていると思っていた。お互いそうだからこそ、俺たちのコンビは成り立っているのだと。
・・・だが。
橘の、ことを考えていると、自分が自分じゃなくなるような気がする。いや、むしろ昔の自分に戻ったというべきか。打算も何もない、純粋にあいつに惹かれていたときの自分に。
それは胸を締め付ける苦しさをもたらすと同時に、ひどく心を穏やかにしてもくれる。
それこそが、誠人の言う、貼り付けた仮面を外す場所というわけだろうか・・?
「ふ・・、あいつらしくない台詞だな」
一人で飄々と生きてきたような誠人にも、もしかすると、そういう場所を望む気持ちがあったのだろうかと、疑問に思う。
もし誠人にそんな相手がいるとしたら、それこそ貴重な存在だろうに。
数年後、誠人にも生涯只一人の貴重な人物が現れることになるのだが、俺はそんなこと、もちろん知りもせず。
ただ頭の中には、自分にとっての貴重な存在だという人、――橘の顔だけが、何度も繰り返し浮かんでいた。