塾の帰り、日課になりつつあるコンビニの窓ガラスから、橘のいつもの取り巻きの中に高木の姿を目にして少し驚いた。
高木の想いは報われなかったわけなのだが、自然と目で追っていれば、変わりなく笑い合う2人はごく普通の友人に見える。
辛いはずだろうに、好きな相手の近くであんな風に笑えるものだろうか。
高木は橘を本当に好きなんだろう。そうしてまで、傍にいたい。そんな気持ちは分かる気がする。
だからこそ橘はこれまで通り優しい笑みを高木に向けているのだ。橘は昔から本当に誠実な奴だったから。
羨ましい、と思った。
こんな風に遠くから見つめることしかできない、逃げてばかりの自分。
素直に自分の想いを口にする勇気もない俺には、酷く羨ましく、そんな光景をただじっと眺めるしかない。
「!」
そのとき、不意に体が強ばった。
橘の視線が、こちらを向き・・、思い切り目があってしまったのだ。
凝視していたのがまずかったと思っても遅い。
驚いて目を見開いた俺に、橘も少しだけ目を大きくして、そして――穏やかに、微笑んだ。
まるで花が咲いたように華やかに、美しい微笑み。
「っ・・・・・」
目が、離せなかった。
早くカオを逸らせばいいのにと、早鳴る鼓動が知らせるが、俺の視線は捕らえられたかのように、惹き寄せられ、見入ってしまう。
美しい笑みは幼い記憶よりもやはり大人びて、それでも胸を温かく包み込むような穏やかで優しい瞳は、あの時のまま、何も変わっていなかった。
ようやくそれから逃れることができても、俺は俯くことしかできず、鼓動を落ち着かせることに精一杯で。
だから、気づかなかった。
――高木が、じっと、こちらを見つめていたことに。
**************
日曜日、塾も学校も休みとあって、いつものように図書館で勉強をしていたのだが、やけに集中力が持たず、早々に切り上げて帰ることにした。
家に帰ると珍しく来客らしく、気になった俺は客間をちらり覗いてみる。すると、見覚えのある顔がそこにあって目を瞠った。
相手もすぐに俺に気づいて明るい声をあげる。
「隆久君、久しぶりだね、私だよ、覚えてるかい?」
父と二人で客間にいたのは、―――橘の父親。
嬉しそうに俺に近寄る笑顔は記憶にあるものと変わりない。
一瞬戸惑いながら、それでも笑みを浮かべて応えた。
「お久しぶりです。お元気そうでなによりです」
「いや、大きくなったね。うちの遙も成長したと思っていたが、君はとても凛々しくなったね」
「いえ・・・」
少しばかり苦笑いになってしまう。橘の方がずっと、大人でキレイになった。俺ばかりがあのころのまま置いてきぼりを食らったように、惨めな気持ちが滲むのは、隠しようもない。
「遙とはもう会ったかい?ずっと君に会えるのを楽しみにしていたようだよ」
「・・・はい、塾が、同じだったので。」
「そうか、良かった。これからもよろしく頼むよ」
・・・これからも?
もう離れると決めている俺に、そんな都合のよい真似ができるわけがないだろう。
だいたい、父はどんな面下げて、橘の父親と会ってるんだ・・。
この人にとって父は、妻の不倫相手にあたる。もちろん本人は知らないだろうが、堂々と友人面しているというのなら父の神経を疑ってしまう。
ちらり、父を見やれば、そこには少し寂しげに微笑む父の姿があった。
やはり、無神経というわけではないのか・・。
―――ダメだ。
これ以上近づいては、決意もなにもない。橘の今の気持ちを知ってしまった以上、これ以上近づくべきじゃない。
なのに、子供の気持ちを知らぬ親たちが、無意味な接点を持とうとしている。
どこまで俺たちの邪魔をすれば気が済むんだ・・。
そんな静かな怒りがふつふつと沸き上がる。
それでも俺は勉強が忙しいという理由で、どうにか平静を保ち自分の部屋へと向かった。
机に向かい、塾の課題に目を通す。課題自体大した量はないが、次回の模試に向けての勉強は力を入れておかないとならない。これまではよくとも、今はどうあがいても2位。満点は無理でも少しでも橘に負けないように、追いつけるように・・。
橘に、追いつけるように。
変わらぬ優しい微笑みを思い出して、ペンを止めた。そういえば、あのころからいつも、橘を追いかけていたような気がする。
橘は昔から何でもできるやつだった。外見も内面も、武術にも優れ成績優秀。要領もよく、何事もそつなくこなす、文句のつけようのない、完璧な人。
5年経った今も、未だ追いつくこともできず、距離を置いても意識は常に橘に向いていて。
結局俺は、未だに橘には何一つ勝てないでいるのだ。
深夜、勉強を終えてリビングに降りると、父が一人晩酌をしていた。だいぶ前に橘の父親は帰ったらしい。
「珍しいね。父さんが晩酌とは」
「隆久か、いや、少し飲みたい気分でね。お前がもう少し年をとっていれば、つき合ってもらえるんだがな」
本当に珍しいことだった。
普段顔を合わせれば「勉強はどうだ」と、そればかり問われていたのに、こんな風に親子らしい会話をするとは驚きだ。
少し寂しそうに背中を丸める父に、俺は胸につかえた疑問を止めることができなかった。
「――橘の父親と、なにか、あったのか?」
「・・・なにって、何の話だ?」
問うと父の肩がぴくりと反応した。しかし振り返った顔は平静を装い、笑みを浮かべていて。
あくまでも隠そうとする父に、先ほど飲み込んだ怒りがこみ上げる。気づけば低い声を発していた。
「橘の母親と・・、まだ続いてるのか?」
瞬間、はっと、驚愕の表情を浮かべた父が俺を凝視した。まさか俺が気づいているとは、思いもしなかったのだろう。
「隆・・久、おまえ・・・」
驚きに声を漏らす父に、返事の代わりにコクリと頷いてみせると、父は「そうか、そうだったのか・・」と繰り返し自分に言い聞かせているように呟く。
頭の中で整理をつけるかのように、少しの沈黙の後、父が静かに口を開いた。
「すまない。お前に、辛い思いをさせてしまったな」
「・・・・・・」
「言い訳する気はないが、少し話をさせてくれ」
寂しそうに笑う父の顔が、見たこともないほど優しくて、俺は覚悟を決めて、父の向かいのソファに腰をかけた。
「遙君の母親とは・・、彼女とは、幼なじみだった。家が隣同士で、高校までいつも一緒だった。いつしか互いに想い合い、将来を誓いあう仲だった」
「・・・・・・・」
「しかし彼女には、親が決めた許嫁がいた。私たちはどうすることもできず、結局別れる道を選んだ。私はその後、お前の母親と出会い結婚した。」
初めて聞く話だった。母と結婚する前から二人の関係はあって、俺たちが産まれるずっと前に二人は出会っていた。
「橘君――遙君の父親と仕事で出会い、親交を深めてからだ、彼女と再会することになったのは。妻だと紹介されたときは、驚きすぎてどうにかなりそうだった・・」
偶然出会ったのは、好きだった女性の夫。皮肉な話だ。そこで再会した二人は、昔のように好意を持ってしまったというわけだった。
「惹かれ合ってしまったことは、事実だ。しかし私たちは清い関係だった。・・・母さんは信じてくれなかったがな。いや、母さんを責めることなどできないさ、私は本当に遙君の母親を、愛していたのだから・・」
昔を思い出すように目を細める父の言葉に嘘はないようで、俺は平静を装いながらも、驚いていた。
不倫を、していたわけでなかったのか、と。
昔愛し合っていた二人が再会し、再び惹かれ合う。
その気持ちは少し、分かる気がした。離ればなれになっても何年経っても、どうしても忘れられない存在、それには自分にも思い当たる・・。
しかし、だからといって許されるわけがない。結局は二人はお互いの家庭を裏切ったのだ。
「橘君は、私たちのことを知っていたよ。私たちが互いに愛し合っていることを知りながら、私との交友関係を壊したくないと言ってくれた。そんなとき彼の海外の転勤話があがり・・・、お互いに話し合って、一番いいと思える答えを出したのだ。」
「・・・離れたというわけか。」
「ああ、互いに家族がある以上、距離を置くことが最善だった。」
「父さん、・・・橘も、二人の関係を知っている。5年も前からだ。母さんだって、愛されていないことを感じて出ていったんだろう?」
「・・そうだな。遙君も知っていたのか。結果的にみんなを苦しめてしまったのは事実だ。・・すまない。
――しかし、私は後悔していないのだ。」
「・・・・・っ」
「――愛している。彼女を、ずっと昔から。それだけは後悔したくない事実だ。」
ドクリ、胸が震えた。
父がこんな柔らかな目をして、誰かを想うことがあるなんて。
橘の父も全てを知っておきながら、妻や父を咎めることもせず、黙って距離を置いていたとは驚きだが、傷つかなかったわけがない。きっと悩んでそれでも橘や妻の為を想ってのことなのだろうと思う。今日再会したばかりの顔を思い浮かべて、その眼に淀んだ感情が見られなかったことに感服する。
きっともう、とっくに乗り越えているのだ。この5年という時間が、大人達にはちょうどいい距離だったのかもしれない。
それでも想い人を語る父の目は、未だ熱く真剣なことは確かだ。何せ、全てを振りまわしておきながら、それでも曇りのない心でたった一人を想っているのだから。
開き直りもここまではっきりとされると、いっそ清々しいが、本当に愛していたのだと、まっすぐな瞳で語る父を、これ以上責めることもできなかった。
そんな俺の様子に、父は穏やかな笑みを見せると、こう続けた。
「しかし、もう彼女と会うことはないだろう」
「・・・・?」
「先ほど橘君から聞いたんだ。二人は離婚することが決まった。」
「――離婚!?」
「数年前から話はあったそうだが、決定したらしい。だが勘違いするな、私たちはもう会わない。それが傷つけたすべての人たちに対する償いだ。・・・ただ、胸の奥でずっと、想い続けていくことだけは、許してほしい・・」
「・・・父さん」
――なんてことだ。
父は今の俺と全く同じじゃないか。橘と両親のために、橘と離れる道を選び、それでも胸の奥深くでずっと想い続ける。
しかしいくら想いを遂げないとはいえ、母が戻ってくるわけでも、昔に戻るわけでもない。
橘の家だって、離婚となると――・・
「橘は、橘はどうなる・・?」
はっと、必然的に浮かんだ一番の疑問。大人びているとはいえ、俺と同じまだ中学生だ。どちらかに付いていかないと生活はできない。
「橘君が親権を持つらしい。しかしそうなると、遙君はまた日本を離れることになるだろうな」
「――!」
「日本に戻ったのは離婚も含めて整理をつけるためだと言っていた。事が終わればまたイギリスへ戻るはずだ」
「・・・・そうか・・」
また、橘がここを離れていく。
やっと会えたというのに。
隣にいれずとも、そこに居てくれればいいと思っていたのに。もうそれすらも、叶わない・・・?
父のように、遠くから想うしかないというのか?
父のように、愛する人を・・。
―――愛する人・・・。
誰にも渡したくない大切な宝物のように、蓋をして隠そうとしたモノは、至極、分かりきっていた想い。
それらから逃げた俺を責めもせず、すべて理解して静かに微笑む美しい人を思い浮かべて、目を細める。
そうだ、俺は、橘を――――。
今も変わらず、愛しているんだ。
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熱い想いを胸の中で確信したところで、今更どうしようというのだろう。
親のためだけじゃない。自分たちのために、距離を置くと決意したのは自分なのだ。
橘をも振り回しておきながら、この想いを伝える資格が俺にあるわけがない。
ハッキリと隠すことなく自分の中にある想い。それに戸惑いながら、いつものように学校へ行き、そして橘のいる塾へと向かう。
その途中俺は唐突に、ハタと足を止めた。
塾の入り口で戸を背に立ち、こちらを見つめている人物に気づいたのだ。
「橘・・・」
それが紛れもなく、ずっと頭にあった人物であることに、驚きを隠せず、俺は呆然と名を呼んで見つめていた。
その距離はほんの3メ―トルほど。少しの沈黙のあと、優しい声に我に返る。
「隆久君、すみません。お話、してもいいでしょうか?」
すみませんとは、話しかけるなと言ったのに、ということだろうか。久しぶりに真正面から見る橘の優しい微笑みを見つめていると、考える間もなく、自然と頷いていた。
塾の授業が始まるとか、もう話さないと決めたのにとか、色んなことが頭をよぎったけれど、昨夜自分の本心を改めて確信したせいか、俺は引き寄せられるように、先を歩く橘の背中を追っていて。
塾の裏側にあるひとけのない場所で立ち止まると、向かい合うようにして橘が口を開いた。
「父から聞いているかもしれませんが、今度また、イギリスへ発つことになりました」
「・・ああ、離婚、するんだってな」
寂しそうにそう告げる橘に、ようやく掠れた声で返すと、橘は微笑して続けた。
「ええ。日本に帰ってきたことで母も落ち着いたのか、予想よりも早くそうなってしまったようです」
「そうか。―――それで、いつ?」
「来月には、すぐ・・」
来月。もう月の中頃を過ぎていたから、来月といえどあと2週間ほどだった。
「隆久君には、きちんと僕の口から言っておきたかったので・・」
「そ、うか・・」
そう答えて俯いたまま、何も言葉にならない。
――そんなに、早く、行ってしまう。
距離を置くことが自分の望みだったとはいえ、本当に手の届かない遠くへ再び、行ってしまう。その事実を目の当たりにして、目の前が真っ暗になった。
「・・お時間をとらせてしまってすみませんでした」
いつまでも無言のままでいると、そんな声が聞こえて顔をあげる。話しかけるなと言った上に、何も話そうとしない俺を見て、橘は少し困ったように寂しそうな笑みを見せた。
ズクリと胸が締め付けられる。俺の態度を拒絶と受け取ったに違いなかった。
違う、そうじゃない。
小さく頭を下げて授業に戻ろうとする背中を見つめながら、掌にぎゅっと力を込めた。
「橘っ・・」
胸を締め付ける想いに、振り絞ったような声が喉を震わせた。
俺はよほど説破詰まった顔をしていたのだろう。橘は振り返って驚いたような表情を浮かべた。
「隆久君・・・」
橘が少し眉を寄せ俺の名を呼ぶ。いつもの微笑みが消えて、見せる寂しげな表情が、さらに俺の胸をジクジクと揺さぶる。
そんなに情けない顔をしているのだろうか、それでも今更仮面をかぶる余裕などない。いや、そもそもこいつの前で自分を偽ることなど、できやしないんだ。
息苦しくて、制服の胸元をぎゅっと握りしめた。
すると次の瞬間、
・・・俺の体は、風にさらわれるようにふわりと引き寄せられていた。
なにが、起こったのか理解するまでに一時を要した。
橘の肩口に俺の頬が触れている。いつのまにこんなに近くにいたのか、間近で感じる、橘の温もり。
俺の背に回された腕は華奢に見えて力強く、首筋に顔を埋めた橘が、俺を強く、抱きしめていた。
「たち、ばな・・」
「―――貴方が好きです。」
下がっていた両腕が、橘の言葉に反応してピクリと震える。
「隆久君、僕は今でもずっと、貴方が好きなんです。」
耳に届く鼓動が速いのは、どちらのせいだろう。ダイレクトに耳に響く言葉に、苦しかったはずの胸の奥から熱いモノがこみ上げてきて。
少し体を放すように両腕を優しく掴まれ、自然と目を合わせると、胸に閉まっていた全てが決壊したかのように溢れ出す。
「橘・・っ」
溢れる想いが喉を詰まらせ、言葉にならない。そのもどかしさを表すかのように次第に視界が揺れ出し、瞳に熱い膜が膨れていく。
泣いてる場合じゃない。それよりも、早く、俺もこの想いを、伝えなくては。
橘が、遠くへ行ってしまう前に・・。
「俺はっ・・」
下がっていた手に力を込めて橘の腕を握り返し、その瞳を強くしたとき・・。
「―――橘!」
第三者の声がその場に入り込んだ。