「―!」
ビクリと反応した俺の体を、橘は自分の背後に隠すように振り返って笑みを浮かべた。
「高木君、どうかしましたか?」
「・・何してんだ、こんなとこでさ」
そう言って近づいてくる声は間違いなく高木。
感情が高ぶって余裕がなかったうえに、人目が気にならない場所だと油断していた。こんなに近くに人がいることにすら気づかなかったとは。
橘も同じだったのだろうか、後ろで握っていた橘の手が俺の思いを見透かしたようにぎゅっと力をこめ、そしてゆっくりと離れていった。
「高木君こそ、どうしたんです?」
「橘を探しにきたんだよ。先生が呼んでてさ。」
「そうでしたか、ご迷惑をおかけしてすみません。」
俺は急いで目頭を拭っていた。こんなところを見られたら間違いなく変に思われる。
俺よりも背の高い橘の背後にいるとはいえ、俺の存在まで隠せるわけがない。いやむしろ、声をかける前から、俺に気づいていたのだろう、高木が眉を寄せてこちらに視線をよこしてきた。
「・・松本、どうかしたのかよ?」
「――別に、なんでもない」
フイと視線を合わせることなく答える。訝しげな視線を感じながら顔を背けた。
「高木君、ありがとう」
「どういたしまして」
先に戻ろうとした橘が高木に目をやった後、こちらに視線をよこして優しく微笑む。
「・・隆久君、では、また・・」
「・・・ああ」
高木や周りに向ける笑みとは全く違う穏やかすぎる微笑み。先程まで独り占めしていたというのに、今更ながら頬が熱くなるのを感じながら、視線を逸らして答えていた。
「・・松本、聞いてた話と違うんじゃねぇか?ずいぶん仲良さそうだったな?」
橘が去った後、高木の纏う空気が変わった。さきほどまでの爽やかな笑顔が一変、睨むような鋭い眼差しと目が合って目を瞠る。
「嘘ついたってわけか。やっぱりな」
「・・やっぱりとはどういう意味だ?」
「無関係だという割に、橘にやたらと視線送ってただろ。お前ら、ど―いうカンケイなんだよ?」
「・・・・・」
なんと言っていいのかわからず黙ってしまう。確かに橘と距離を置くと決めた手前、無関係だと答えたがそれはあながち嘘でもない。昔はともかく5年ぶりに再会し、今の橘のことを俺はよく知らないのだから。
しかしではどういう関係なのだと問われると、返答に困る。
遠ざけようと見なかったふりをしようとした自分の気持ちが今は抑え切れぬほどに膨れ上がり、橘を目の前にすると溢れ出てしまいそうだった。
つい先ほど触れあっていた腕や頬が、思い出したように熱を帯びた。
「くっそ、・・ふざけやがって・・」
そうやって立ち尽くす俺をどう捉えたのか、高木は忌々しげに眉を寄せながら毒づいた。
この様子だと、橘に抱きしめられているところを見られた可能性が高い。
高木は橘のことが好きなのだ。そんな現場を目撃して面白いはずがない。
いや、高木だけじゃない。橘に好意を持っている奴らは結構いる。
ファンクラブとか親衛隊だとか言っていたか、橘に群がる奴らは日を追うごとに増えていて。橘と親しくしようものなら、厄介事に巻き込まれそうだなと遠巻きに見て思っていた。
橘も分かっているからこそ、俺に関わらないようにしていたという面もあったのかもしれない。
そんな面倒ごとはごめんだ。
・・・まだ自分の想いを伝えることもできないというのに。
その場からそのまま帰ってしまいたい気分だったが、試験が近いこともあり俺たちはそれから一言も発することなく授業に戻った。
しかし、その日の塾の帰り。俺のイヤな予感は的中することとなった。
教室を出ようとする際に橘と目が合ったが突然親しくするわけにもいかず、俺はその視線を振り切って早々と塾を後にした。そしていつものようにコンビニから橘の姿を見送るべく眺めていたのだが、珍しく一人で帰宅する橘の姿を見て、おや、と首を傾げた。
取り巻きの奴らはどうしたのだろう・・?
少しのイヤな予感は家路に向かう途中公園にさしかかるところで、見知った声に呼び止められたことで確信に変わる。
顔を上げると、そこには高木を筆頭に、塾生6人と知らぬ男子が3人。
そのまま行く道を阻まれ、俺一人が9人に囲まれるという明らかに不穏な空気。通行人の視線を考えると場所を変えた方がいいと判断した俺は、黙って公園の中へ付いて行った。
橘の取り巻きの奴らか、いないと思えばこんなところで俺を待ち伏せしていたのか。
どうも穏やかじゃない面々の様子に、隠しきれないため息が漏れる。
そんな様子が癪に障ったのか、一人が顔を歪め投げつけるような声をあげた。
「橘遙に近づいてるってのはお前か」
知らぬ男が値踏みするかのような視線を送ると、同じ塾生の一人がバカにしたように言う。
「ああ、こいつ。橘さんに首席とられたやつだぜ。」
「へぇ、優等生の秀才でもあの人には勝てないってことか」
高木以外の塾生ははっきり言って名前も思い出せなかった。塾のクラスが違い、同じ中学でもないのだから仕方がないだろうが、相手は俺のことを知っているようだった。
それにしても、橘が帰国してからまだ1ヶ月半だというのに、あいつの人脈の広げ方は凄まじいなと、ぼんやり思う。・・まぁ、本人の意図せぬ方向に、だとは思うが。
そんな態度がさらに煽ってしまったのかもしれない。高木が先ほどよりも余裕のない様子で苛立ちを隠そうともせず、俺をまっすぐに睨んできた。
「――松本、さっきのこと説明しろよ?」
「・・・なんの話だ、高木」
「とぼけんなよ!」
声を荒げて高木が胸ぐらを掴んでくる。
「抱き合って何してたっ?!あの人はお前のような奴が近づいていい人じゃねぇんだ!」
「・・・・・・」
嫉妬と怒り、それらが分かりやすいほど表情に現れている相手を、俺は冷静に見据えていた。
橘もずいぶんと崇拝されたものだな。
頭脳明晰、容姿端麗、あらゆる賞賛の言葉が似合うから、それもわかる気がする。しかし、こいつらは橘の何を知っているというのか。
外見か、もしくは常に絶やすことのない笑みか?
こいつは橘の事が好きだという。ほかの奴らは俗にいうファンみたいなものだろうと理解しているが、こうして群を成して邪魔な芽を摘むというのは、どういう心境なのだろう。
高木は一人でも面と向かって想いを告げることができる、勇気のあるやつだと羨ましくも感心していたが、どうやら買いかぶりだったのか。
そう思うと、妙に冷めた目で相手を見返していた。
「なんだよその目、ヤルってのか、ああ?」
ああ、そうか。こいつは、こういうタイプだったのか。うちの中学にも大勢いる、血気盛んな男子。
面倒ごとの仲裁なら日々執行部にてこなしているが、当事者になるのは避けたいところだったのだが・・。
そうも言ってられない見慣れた状況に、自然と執行部の鬼だと言われる自分が顔をのぞかせていた。
「さっきのことなら、お前たちに弁解することなど何一つない。橘は俺にとって友人以上の存在だ。二人の間にあったことを、お前たちにいちいち説明する必要はないということだ。」
「・・・ってめ―!」
学校外ではあまり見せることのない冷めた眼差しと、高圧的な物言いが相手を挑発することは分かっていた。予想通り、カッと血が上った高木がそのまま拳を振り上げてくる。
喧嘩などしたことのない優等生だとでも思ったのだろう。
ヒラリと避けると、高木は驚きながらさらに怒りに据わった目で向かってきた。
それを真っ向から避けていなすと、今度は俺の動きを押さえようと数本の腕が伸びてきて、その一つ一つに最小限の力で反撃をする。
多勢であってもこの程度の喧嘩ならいつも経験していた。荒くれ者の集まる中学に通っている上に、俺はそいつらを取り締まる執行部の一員なのだ。
相方の誠人ほどじゃないにしろ、喧嘩というものに慣れていた。
「くっそ・・!」
加勢してくるやつらも手加減をしながらその場に沈めていく。何度目かのやり合いのあと、背中から勢いよく地面に転がった高木が、悔しげに言葉を吐いた。
「優等生面してバカにしやがってっ!なんでお前みたいな奴とっ!!」
憎しみに歪んだ表情の中に、傷ついたような哀しみがにじみ出ていることに気づいて、俺はああ、と納得していた。こいつは本当に橘のことが好きなのだと。
振られてもいつか振り向いてくれる日を願って傍にいるほど。
好きになるのに遅いも早いもないが、突然出てきた俺に横取りされるのは我慢ならなかったのだろう。
・・・確かに俺は、橘が好きだ。
橘に抱きしめられて、溢れる想いの赴くまま気持ちを伝えようとしていた。
――しかしそれは、橘が行動を起こしてくれたからにほかならない。
距離や時間があまりに苦しくて、それを言い訳にして逃げていた、橘への想い。
淋しさを振り払うように、自然と身につけていた虚勢や自尊心は、孤独の中で顔を上げていくために、必要なものだった。それらが今の自分を作り上げているといっていいほど、俺は必死で自分の外枠を固めてきたのだと思う。
だからこそ、突然橘が目の前に現れたとき、震えるほどの歓喜にわきながら、同時に、怖い、と思った。
もし、なにも考えず、自らあの胸に飛び込んでしまったら・・、今の自分が、脆くも崩れさってしまう気がした。
培ってきた様々な仮面が、素直に橘の胸に縋りつきたい衝動を抑え込んでいたのだ。
どんなに強情に別れを口にしても、会いたい、触れたいという欲望は隠しようもなく、体中を渦巻いているというのに・・・。
真っ向から体当たりした高木からみれば、ずいぶんと俺は狡い男だろう。
「・・・・すまない。」
未だ煮え切らぬ自分への苛立ちがこみ上げ、ぽつりと口にした言葉。それは聞き取れるかどうかというほど小さく。
しかしその言葉は、しっかりと高木の耳に届いていた。
謝罪の言葉をどう受け取ったのか、その目はさらなる怒りに燃え、突き動かしていた。
「バカにするなっ!!」
怒声と同時に勢いよく飛びかかってきた体を避けきれず、そのまま強い力で、すぐ傍にあったコンクリ―トの壁に、背中から打ちつけられた。
とっさに受け身をとったものの、強い衝撃に息が詰まる。
「・・っ」
「馬鹿にしやがって・・っ、何が”すまない”だ、高見の見物かよ!」
「高木・・」
そんなつもりなど、毛頭ない。本気で橘を好きだという高木の気持ちは、むしろ共感できるしその勇気は感心するところだってあるのだ。
けれどやはりそんなことを言ったところでこいつの怒りは静まらないだろう。
俺がこいつの立場でも、やはり俺のような煮え切らない男は、卑怯だと思うし、怒りを覚えるはずだから。
――それならば・・。
左手で強く胸ぐらを掴まれたまま、右手の拳を振り上げたのを見て、覚悟を決める。
多勢にリンチというのはいただけないが、こいつの拳であるのなら、一発くらい受け入れようと。
それで気が済むのなら、それもいいのかもしれない。
すっと力を抜いて、訪れる衝撃を予想して歯をくいしばった。
しかし次の瞬間。
いつまでも振り下ろされない高木の右腕が、不自然に強ばっている理由に気づいて、俺は目を瞠った。
「た、ちばな・・?」
高木の背後、その右手を軽く捻りあげるようにして立っていたのは、見間違えようもない、橘の姿。
しかしその顔は、いつになく無表情で。
「なにを、してるんですか・・?」
途端にその場が凍り付いた。
笑みをはぎ取った表情で、ぽつりと呟くような問い。いつもとは異なる冷たい口調に、高木の顔は一気に蒼白になり、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
橘の笑みのない表情、そしてその言葉が、ほかの誰でもなく俺に向けられているということに息をのむ。
―――俺は、知っている、橘のこの目を。
あのとき、俺の父と橘の母のただならぬ関係を知った時。
あまりの衝撃に自棄になっていた幼い自分。
母に捨てられ、父は俺よりも大事なものがあるのだと嘆き、自分は本当に捨てられたのだと、必要のない人間なのだと思いこんでいた。
今思えば本当に幼い子供らしい感情だったのだけれど。
全てが信じられなくて逃げだそうと考えたあのとき、引き留めるように腕を強く掴んだ橘の、あの瞳。
『貴方が逃げる必要はないですよ。あの人たちが許せないのなら、――僕が、復讐してあげましょうか?』
目を張り、絶句した。どうやって、と聞けないほど、冗談だと思えなかったのだ。いつもの柔らかな笑みは欠片ほども見えず、冷たく真剣な瞳の奥に見えるのはゾクリとするほどの深淵。
忘れていたわけではなかった。しかし今、鮮明に思い返すと、冷たいものが背筋を這う。
「分かったからおかしなことを言うな」と青ざめた俺に、橘がようやく見慣れた笑みを見せた時は、どうしようもなく安堵した。
『僕には貴方が何よりも大事なんです。貴方が傷つくことだけは耐えられない。』
優しく囁かれた言葉。
優しい微笑みの裏にある、鋭利な表情。
しかしそれは、俺を想うが故のものなのだと知った。
だからこそ、橘が俺から離れていったときも、橘が俺を傷つけるようなことをするはずがないと分かっていた。
俺にとってそれが最善だったのだと。胸を切り裂く痛みにガキのように拗ねてみても、頭のどこかでそう理解していた。
目の前にある怖いくらいに真剣な表情は、あのころよりもずいぶん大人びて美しさを増している。
そうだ、この顔も、橘なのだ。
鳴りを潜めていた冷酷なほどの美しさも、俺に微笑みかける優しさも、驚くほどまっすぐに感情をぶつけてくる真剣な瞳も、どれもが俺の知る橘の姿。
そのどれもが俺を惹きつけ、放さない。
微笑むだけで艶っぽい色気を放つだろうその双貌は今は、ただまっすぐに俺を見据えていた。
「隆久君、何をしているのです?」
「橘・・・・、何って・・」
口調にも瞳の奥にも、明らかに苛立ちが見える。
しかし何を怒っているのか、見当もつかない。地面に転がる高木達など目に入った様子もなく、橘は真剣な瞳で俺に問う。何をとは、この状況を言っているのだろうが、俺が望んでこんな騒ぎを起こしたとでもいうのだろうか。
返答に困っていると、さらに橘が続けた。
「――なぜ、反撃しようとしないのです?」
「・・・!」
「元はといえば僕のせいなのでしょう?この人たちに危害を加えられる理由は何もない。なのになぜ黙って殴らせるような真似をするのですか」
「・・・・橘」
ようやく、理解できた。
橘は怒っているのだ。自分のせいで俺がこんな目にあっているということ、そして俺が半ば投げやりに高木の怒りを受け入れようとしたことを。
「僕は許せませんよ。貴方が誰かに傷つけられることも、貴方が自分で傷をつくることも。」
はっきりと告げられた言葉に、息をのんだ。
「貴方は、僕のものですから。――あのときから、ずっと。」
そう言ってあのときのように、微笑む。
それは、”好き”という言葉よりも何よりも、激しい愛の言葉。自分のものである俺が、傷つくことは許せないのだという、あからさまな独占欲と深い愛情。
そうしてあのころと同じく微笑む顔は、ひどく優しくて。
常に浮かべている微笑ではない、俺だけに見せる甘すぎるほどの艶やかかな微笑み。
じわじわと胸に温かなもの広がっていく。
「―――そうだったな・・」
自然と口端があがっていくのを感じながら、噛みしめるように言葉を紡いだ。
「俺も忘れはしなかった、橘。」
あのころから、ずっと。
橘は、俺のすべてを持っていく。
どれだけ空白の時が流れようと、お前を感じない日はなかった。
どれだけ虚勢を張っても、孤独に苛まれていても。
お前に会えない全ての時間も。
俺はとっくに、お前のものだった。
そしてお前は――・・。
俯いていた顔を上げて、見下ろすように高木に目をやる。
はじめから俺らしく、こうやって顔をあげていればよかったのだ。
5年の想いは、一朝一夕の演技で隠しきれるような、浅いものではないのだから。
「悪いな、高木。俺は橘を愛している。こいつは・・、橘はずっと前から、俺だけのものだ。」
傲岸不遜な物言いは、俺が自然と身につけた仮面。
だが同時にひとつの俺の姿。
俺の言葉に、高木は何かを言い返すような勢いもなく、がくりと、その場に尻をつけた。悔しそうに歪んだ顔には、諦めの色が滲んでいた。
そのまま、周囲に転がったまま様子を窺っていた残りの奴らを見渡して、声を張りあげる。
「おまえ達取り巻きも、今日を持って解散してもらう。こんな真似、二度目はないと思え。」
高圧的な言葉に、蒼白な顔をして逃げ腰になる奴らを後目に、橘と目を合わせて悠然と微笑んでみせた。
これが今の俺なのだ、と。
綺麗な茶色の瞳を大きくして見守っていた橘は、その瞳を柔らかく細め、極上の微笑みを返してくれた。
「貴方にはもう、”可愛い”なんて失礼ですね。」
「・・元々、俺は可愛くなどない」
「昔は可愛かったですよ、本当に。けれど今は・・、目が眩むほど、格好いいですよ。」
そう行って笑う橘は、眩しいほど美しかった。