少し肌寒くなった屋上に一人、捜し求めた背中があった。
やはりここだったかと、ほっとして歩を進める。
手が届く距離まで黙って近づいた久保田に、気配に気づいた時任は振り返り、まっすぐにその瞳を向ける。
決して淀むことのない綺麗な瞳は、揺らぐことなく久保田を見つめた。
さきほどまでの泣きそうな脆さは、もうどこにも見えなかった。その潔いまでの気高い表情に、追いかけてきた久保田が気圧されるほど、凛とした姿。
けれどそれこそが、久保田の知っている時任だった。
「時任・・、そろそろ帰ってきてくれないかな?」
「・・・久保ちゃん・・」
久保田の静かな声が空に吸い込まれる。時任はわずかに表情を動かした。
「もう、お前に勝手に触れたりしないから・・。困らせて、・・ごめんね?」
「―――っ!」
『違う――!!』
そう叫びたいのに、胸が詰まって言葉にならない。
いつものように穏やかな久保田の顔。だけど決していつもと同じではなかった。苦しそうで、痛そうで、寂しそうで・・。たぶん、そういう感情を全部隠した得意のポーカーフェイスってやつなんだろうと思う。
そうやって久保田はいつも気持ちを表に出さないから、伝わりにくいのだ。
『言いたいことちゃんと口にして伝えてごらんなさいよ』
五十嵐の言葉を不意に思い出した。
――そうだ。俺はまだ、久保ちゃんに何も伝えてない。
あの時、久保田となら・・・と思えた自分の感情は、これ以上ないほどはっきりとしたモノで。少しの不安に恐怖を感じたとしても、自分の胸の想いには嘘をつけなかった。
離れてみて分かる、胸の苦しさと恋しさ。
胸に込めたその答えを、はっきりと久保田に伝えたいと、時任はその瞳を強くした。
「・・・久保ちゃん、やっぱ全然分かってねぇのな。何でも分かったカオして、背中見せてばっかでさ。」
「・・・・・・」
「俺は・・・、俺はお前が何よりも大事なんだ――。お前がホンキで俺を求めるなら、俺は逃げたりしねぇよ。だから、久保ちゃんも逃げんなよ。」
「・・・・時任」
「っつーか。俺から逃げるなんて許さねぇぞ。」
悩んで悩んで、何度も考え込んでいたのに。口にした言葉には、嘘も迷いもなかった。
自分の想いから逃げるな。俺から逃げるな。
それはとても、時任らしい言葉で。
「俺は・・、俺は久保ちゃんが、全部――、欲しいんだ。」
真剣に、まっすぐに言い放つ時任の姿に、久保田は眩しげに目を細める。
普段ならとてもじゃないが口に出せることじゃない。こんなに浅ましく久保田の全てを求める自分を、久保田はどう思うだろうか。伝えてしまってから、耳まで熱く感じるほどの恥ずかしさがこみ上げて、心臓がバクバクと音を立てて、時任はたまらず目をぎゅっと閉じた。
久保田がどんな顔をしているか見たい気持ちがあったが、そんな余裕もなかった。
それでも口にしたいことと、考えて素直に出た言葉は本心で・・。
「!」
突然ぎゅっと強く抱きしめられ、時任は目を開いた。
それは紛れもなく久保田の温もりで、久しぶりに匂う久保田の香り。
「久保ちゃん・・」
自分よりも広い背中に手を回すと、久保田の手が頬に触れた。真剣な瞳がのぞき込むように時任の瞳を捕らえる。
「ほんとにいいの?時任。ホントはお前、俺が怖いんじゃないの?・・俺はお前が思うよりずっと欲深いよ。後でダメって言っても止まらないから。お前をすべて奪い尽くしても・・きっと、足らない」
「っ!」
どくりと胸が再び高鳴る。求められる熱い瞳が目の前にあった。その奥底に見え隠れするものが、確かに怖いと思うこともあった。
けれどやはり久保田に触れたいと思う気持ちはあって。
「怖いと思ったのは否定しねぇよ。だけど俺は久保ちゃんとなら、どこへでも行ける」
「時任・・・」
「だから久保ちゃん、俺、ここにいてもいいか?・・やっぱ俺はいつだって、久保ちゃんの傍にいたい・・・」
「―――うん。」
胸に顔を埋める時任に、久保田は穏やかな笑みを浮かべた。耳まで赤くなった顔を必死に隠す姿が愛しくてたまらない。
ぎゅっと抱きしめていると、数日ぶりに身体の力が抜けていくほどリラックスしていることが分かる。
ほっと安堵している自分を見れば、初めから手放すことなどできないのは明白で。
やっとこの腕に戻ってきた温もりは、やはり自分には欠かせないものだと強く実感する。
――――俺ってやっぱ、ビョーキだなぁ・・。それも末期の。
そんな思考に苦笑していると、時任がおずおずと、眉尻を下げた目で見上げてきた。
「・・それで久保ちゃん、あのさ、俺をう、奪い尽くすって・・、つまり、ど、どうしたいんだ?」
どうやら先ほどの言葉の意味を考えていたらしい。一度途中まで抱きかけたのだからその意味が分からないはずもないだろうが、どうにも時任の理解の範疇を超えたようだった。必死な表情が可愛らしいが、久保田は、もう嘘をつくつもりはなかった。
「知りたい?・・・・シタイことならいっぱいあるけど。今すぐこの場で服を剥ぎ取って、体中弄りたいとか。時任の中に俺のを奥まで突き入れて、どんだけ意識飛ばそうと何度も何度も抜かずに・・」
「す、ストップ――ッ!!も、も、もういいからっ、それ以上言うなっ!」
「だって、詳しく知りたいんでしょ?」
「詳しすぎんだよ!も、もっと大まかにだな・・」
「・・うん。―――俺も、お前が、すべてほしいんだ」
時任は、こぼれ落ちそうなほど大きな瞳を開いた後
「―――なんだ、俺と一緒じゃんか。」
と嬉しそうに笑った。
その笑顔がキレイで眩しくて・・、久保田は目を細めて微笑み返さずにはいられなかった。
その無垢な清らかさで、自分の汚ない黒いモノがすべて浄化されたらいいのに、と願いながら――。
手を差しのべてくれたお前と、その手を離さないと大事に握りしめた俺。
―――囚われたのはどっちだろう?
俺の全てを受け入れてくれたお前を、もう放すつもりはない。
逃げられないように鍵をかけて、閉じこめて。俺はきっとどんなことでもするんだろう。
だけど、そんなことをしても意味がないと分かっている。
たぶん。
囚われたのは、俺の方だから。
お前を強く想えば想うほどに、見えない鎖がギリギリと心臓に食い込む。
激しく底の見えない欲望が、じりじりと己の身を焦がしていくんだ。
全て全て、お前で埋め尽くして。
そうしてようやく、俺は安堵するのかもしれない。