俺が今感じているこの感情は、一体なんなんだろう。
あの時・・、公園で猫の死体を埋めたようなものなら・・・、どんなに楽だろうか。
生まれて初めて感じる、息苦しいほどの胸の痛み。
時任―――。
お前が傍にいないことで、俺はやっと自分の存在意義を感じさせられている。
お前がいないのならそんなもの必要もないのに・・・。
とんだ、・・・皮肉だ。
「う・・・・」
時任が目を覚ますと、そこは無機質な部屋だった。そこには窓一つなく、病室のベッドのようなところに寝かされ、両腕をそれぞれ拘束されている。
どのくらいたったのだろう。
実際には久保田を置いていってから、ほんの数日であったが、朝とも夜ともつかぬ白い空間のなか、目を覚ますたびに鈍い頭痛と強い眠気に襲われ、何度も意識を失っているようだった。
・・・俺は一体どうなってんだ・?
ふと気づくと腕にチクリとした針のような感触がした。
冷たい液体が右腕を襲い、凍らせていくような感覚。
その冷たさが感覚を奪っていくように、四肢に力が入らない。
何かの液体が体中を徐々に駆け巡るように自分を犯していくのを感じる。
痛みはない。ただ、なにかに飲み込まれるような・・恐怖に足がすくむような感覚だけだ。
次第に重たくなる瞼・・。目を閉じると大事なことを忘れてしまいそうで、時任は懸命に自分と戦っていた。
しかし次第にその波は時任を蝕み、再び深い闇へと落ちていく――。
・・・・久保ちゃん、久保ちゃん―
その名を確認するかのように何度も心で繰り返すが、時任の頭に響くのは、久保田の声ではなかった。
『稔、お前は僕のものだ。早く、早く戻っておいで・・稔』
・・・い、やだ・・・、
もうやめろっ・・・・・!
『お前は僕だけの・・・』
お願いだからもうやめっ・・
『僕だけのものなんだから』
やめてよっ・・・
やめてよ、アキラさんっ!!
・・・・・・・
現実とも夢ともつかぬ世界で、時任は男の名を叫んでいた。
途端に目の前が真っ白な光に覆われ、過去の幼い自分と男の姿が目に浮かぶ。
『今日は何の実験?』
『今日はね、神経系増強剤の新しいおクスリだよ』
『ゾーキョウザイ?』
『筋肉や骨の形成を促したり、神経変性疾患の治療に役立てたり・・』
『説明聞いても分かんないよー、とにかく役に立つ薬ができたってことだよね』
『そうだよ。いい子だね、稔。怖いかい?』
『ううん、大丈夫だよ、アキラさん』
・・・・・・・
恐怖はなかった。むしろ男に対する全幅の信頼と、生きているという実感。
しかし場面は代わり、少しばかり背が伸びた自分の姿が苦痛にゆがんでいることに気づく。
『う・・、ア・・キラさん、苦しっ・・』
『稔、大丈夫だよ。今クスリ打つからね』
『あぁっ!アキラ・・さん、も、クスリは・・いや、だ』
『大丈夫、ほらおいで、すぐに痛みは消えるよ』
『っ・・うっ・・ああ――っ・・』
・・・・・・・
何度となく訪れる身体の変化と激痛。そしてその痛みから逃れるように男の名を呼ぶ。
それでも自分は意思を失っていなかったことを思い出す。
男に対する恐怖、不安。
それらがうずまき、時任は叫んでいた。
いやだっ、いやだっ、アキラさん、なんで?
どうしてこんなに苦しめるんだっ・・
俺はもう、イヤだって言ってんのに・・
もうヤだ、
イヤだ・・・・。
・・・逃げよう。
そうだ、逃げよう。
今日は・・・アキラさんは来ない・・。
今日しかない。
逃げるんだ――――!
『いたぞっ!逃がすな!!』
はぁっはぁっ、息が・・、苦しい。
でも、止まるわけにはいかない。
今、逃げなきゃ、俺は・・、俺は、人じゃなくなるっ・・・。
前に、進むしかねぇんだ・・!
『海に飛び込みやがった!』
『逃がすなという命令だ!手榴弾を投げろ!当てるなよ、気絶させるんだ!!』
『いたか!?いや、いない!!』
耳の遠くに爆発音が響き、次第に意識が遠のいた。
けれど、眠ってしまうわけにはいかない。
俺は、逃げなきゃならないから。
人でなくなることが怖い、―――自分が怖い。
逃げなきゃ――何から?
逃げなきゃ――誰から?
逃げなきゃ――
・・・あの人の手の届かないところへ―――!!
目まぐるしく動く時と風景に、時任は必死に走った。
足がもつれ、うまく走れない背後から、何か黒い影が追い詰める。
そこにあるのは、真っ暗な闇、得体の知れない恐怖――。
「うあああああっ!!」
朦朧としていた意識は悲痛な自分の叫びによって、無理やり、覚醒させられた。
「・・うう・・・・」
ここは・・どこだ?
何か悪い夢を見ていたと思うが、それが何なのか思い出せなかった。
けれど・・・。
真っ白な壁に、天井―、この天井は・・。
ああ、俺は・・・。
「おはよう、稔」
聞き覚えのある声が俺を呼んだ。
うつらうつらしながら何度も俺を呼んでいた声。
そうだ、俺は・・・ミノル。
そして、俺の隣りにいるこの人は、
「・・・アキラさん・・・」
俺がその名を呼ぶと、その人はとても穏やかで優しい笑顔を浮かべた。
「おかえり、稔」
その笑顔は誰かに似ている気がして、俺は夢の中で、この人ではない、その誰かと会ったのかもしれないと、ぼんやりと思った。
俺は稔、この人はアキラさん・・、けれどそれ以上のことは、
・・何も、思い出せない・・。
腕に繋がったチューブから透明な液体が入ってくると、再び遠のく意識とともに、全てが白い靄に消えていった。
薄れる意識の中で俺は、また眠りにつくのかと思う。
けれどそうして目覚める頃には、やっと全てを思い出せるのかもしれない。
たぶん、全てが、長い夢だったかのように――。