「時任様、いらっしゃいませ」
昨日とはまた違った高級スーツを着込んだ時任が、予定通りそのカジノを訪れると、丁寧に頭を下げて出迎えたのは昨日の初老の支配人だった。
「こちらへどうぞ、オーナーもすぐまいります」
予想通り上客の対応には長谷部も顔を出すらしく、周囲を見回しながら時任はその後をついていった。
昨日よりもだいぶ遅い時間を狙ったせいか、客は少ないようだった。ゲストで溢れているはずのテーブルゲームにも客がちらほらといるだけだ。
その一番奥の一卓には、すでに久保田が待ちかまえていた。
「ようこそ、お待ちしてましたよ。・・一郎サマ」
にっこりと微笑んでテーブルについていた久保田はくわえ煙草こそしてないが、時任の知るままの久保田だった。
その隣にいるユーリも笑顔で頭を下げる。
「・・時任でいい」
(誰がイチローだ、誰が!)
時任は、あからさまに顔をしかめながら、久保田の飄々とした態度に、「ったく、つくづく接客向きじゃねぇな」と内心で毒ずく。
しかし大して演技をしているわけでもないのに、そこにいる男は貫禄さえ持った立派なディーラーに見えたのも事実だった。
周囲にいるバニーの格好をした女性らが仕事中にも関わらず久保田の姿を見て、うっとりと頬を染めている。
そして支配人やスタッフらはこの男を信用しているらしく、警戒している様子はない。
たった数日の潜入で、どうやったらそんな芸当ができるのか。
(・・何でもできるってのも考えもんだな)
器用な久保田に感心しながら、少々苛立ちを覚えた時任だった。
「では、さっそくどーぞ」
久保田に促されるまま席につくと直ぐに、足音が近づいた。間違いなく、待ち望んだ相手の登場だった。
「ようこそ時任様。オーナーの長谷部と申します」
長谷部は五十くらいの白髪交じりの男だが、意外にも端正な顔立ちをしていた。口元に笑みを浮かべながらも、その双貌は鋭く、精彩を欠いてはいない。時任より背も高く、その物腰は、長いこと上流階級にいたことが分かるほど上品な立ち居振る舞いだった。
少し目を開いた時任だが、ようやく現れた目的の男に内心笑みを浮かべていた。
ここからが勝負だとばかりに、早々に切り出すことにした。
「ここのオーナーってことは、あんたも賭事は好きなんだな」
「それはもちろん。キャリアは君より長いからね」
時任のくだけた口調に長谷部も年下に対する物言いで返した。
「だったらさ、俺と勝負しねぇ?」
時任のつり目の瞳が真っ直ぐに男をとらえ、男は軽く片眉をつり上げた。
「ほぅ・・?」
「今日は客が少ないようだし、ギャラリーがいないんじゃ面白くねぇけど、せっかくだからさ。どーせやるなら大勝負賭けてみたいんだ。相手があんたならそれも可能だろ?」
息を呑む支配人らを前に、時任は悠然と笑ってみせた。
(・・いい眼だ)
長谷部はそう感心するように目の前の少年を見ていた。年はだいぶ若く、無謀に走る少年のようなひたむきさを持ちながら、その強い瞳はまっすぐに長谷部をとらえていた。
勝負師という眼とはいえずとも、人の眼を引く何かを持つ少年だと思った。
「確かに、君が望む金額を用意する力はあるがね。それはお互いに大変なリスクを伴う。君の望みは?」
「話が早いな。俺が欲しいのはあんたが持っている”女神の肖像画”だ」
「――!?」
長谷部の顔が一変し、眼を剥いた。
「そしてそれに対する俺の掛け金は2億」
「2億・!?」
思わず声を上げたのは支配人だ。
スタッフ、近場にいた客らも、眼を張ってざわついている。
そんな破格の掛け金は本場でも滅多にありえないのだ。
「・・・」
長谷部は驚きに眼を張ったまま黙っていた。そして何かを思案するようにじっと少年を見つめた。
「・・・君はなぜその絵を知っているのかね?」
長谷部にとっては当然の疑問だろう。
”その絵”のことを知るのは、一部の関係者だけだというのに、“女神の肖像画”という絵の題を知っている者は、長谷部の知る者の中でもかなり限られた人間だけだった。
だがこの問いで、長谷部は素直にその絵の存在を肯定したことになる。
ここで「なんのことだ?」とでも言われれば、ややこしくなるところだった。無表情を決め込みながら時任もユーリもホッとしていた。
「ある人に聞いた。何でも価値のある絵なんだって?俺は絵の趣味はねぇけど、その絵自体には興味を持った」
じっと鋭い目に見られながら時任はあっさりと答えた。
嘘ではないことは確かである。
「ほう・・。だがあの絵は限られた人間が持ってこそ鑑賞する意義があるものだ。君にはその資格がないと思うが?」
「・・そりゃわかんねぇな。あんたにはその資格があるってのか?」
「・・ふ、なるほど。それは分からないな」
長谷部の答えを聞きながら、ぎゅっと拳を握りしめたのはユーリだった。
(すべてを奪ったこの男に、母親の絵を見る資格があるはずもないー!)
必死に表情を作り強く唇を噛むと、長谷部の返答はユーリ達の思惑通りのものだった。
「いいだろう。絵は私の自室にある。取りに行くとしよう」
「で、ではオーナー、お受けになられるのですか?」
主人の言葉に支配人も慌てた。何しろオーナー直々の大勝負である。
「私は自分の持ち物を手放す気はない。勝てばいいだけの話だ」
昨日、時任はスタッフや常連の客の前で大勝ちしている。その強運の持ち主との一騎勝負に、オーナーが尻込みをするわけにはいかないのだ。体裁というものがある。
それも若い相手は2億もの大金を賭けるというのだ。対してこちらのカードが肖像画一枚とあらば、オーナーとして乗らないわけにもいかない。
そして長谷部には強運の久保田というディーラーがいる。
負けるわけがないという確信がある長谷部は、余裕の笑みさえ浮かべて賭けに乗るに違いなかった。
「オーナー、では私が取りに参りましょう」
おそらく絵のことは知らない支配人も同じ考えだった。自分の仕事とばかりに言い出した。大したリスクもなく2億が手に入るとあれば、受けない手はない。
「いやそれは無理だ。あの部屋には最新の認証キーがついている。私にしか開けられない」
眼を張ったのはユーリである。
――あの開かずの間だ!と思った。
この6年、確かにあの絵は長谷部の近くにあったというのに、目にすることもできなかった。
ユーリには忍び込んだ際に入れなかった部屋があった。それが長谷部のオーナー室にある、“開かずの間”だった。
見た目は至って普通のドアだというのに、レバー式のノブをいくら回しても、押しても引いても、開けることができなかった。
だがその扉には、鍵がなかった。それどころか鍵穴も、キーカードをかざす機械もなかったのだ。
扉を蹴破ろうかとも考えたこともあったが、それもできない。いや、やらなくてよかった。最新の認証システム、絶対のセキュリティを誇るというのであれば、無理に開けようとすれば、警報が鳴ったはずである。
「ではせめてわたくしがお供いたします」
ユーリはそう言って微笑むと、長谷部は素直に頷いた。
どうやってあの扉を開けるのか、それを確認したいというのもあるが、一刻も早くあの絵をこの目にしたいという想いも強くあった。
長谷部はオーナー室にカードキーで入ると、開かずの間に続く扉の前に立つ。
その扉には金属製のレバー式ドアノブがついていた。見たところカードキーを差し込むような穴もないが、ドアノブ上部には四角く黒いセンサー部のようなところがあった。一見ドアの飾りにも見えなくはないが、これがキー認証システムであるならばカードキーをかざせば簡単に開くはずである。しかしユーリは以前それを試したが、開けることができなかったのだ。
すると長谷部はそのセンサーに鍵ではなく、自分の人差し指をそのセンサーにぴたりとくっつけた。瞬間、黒一色だったセンサー部は緑に点灯し、レバーは自動的に下へと回り、いとも簡単にその扉は開いたのだった。
(・・指紋認証ドアノブ!・・そこまでして隠しているなんて・・)
「驚いたかね?アメリカじゃ珍しくもないだろう?センサーは私以外には反応しない。別の人間がここに指紋を当てながら無理に開けようとすれば、たちまち警報が鳴るというわけだ」
ユーリはなるほどと、眉をしかめる思いだったが、驚いたのは本当だった。さすが最新の設備を誇っているホテルである。それでは長谷部しか開けることができなかった。もし認証システムを知らずにそこに指紋をつけでもすれば、警報が鳴っていたかもしれないのだ。
長谷部に続いて中に入ると、そこは至って普通の部屋のようだった。周囲を注意深く見渡すと、壁には大小さまざまな絵画が並び、そのどれもが目を剥くような高価なものに違いなかった。
ユーリが手に汗握りながら目的の絵を探していると、長谷部はちらりとユーリを見て微笑んだ。
「ここは私の宝部屋だよ。ここに入れた人間は君が始めてだ」
「え・・?」
「見なさい。あれが”女神の肖像画”だ」
「!」
長谷部が指したのは、ベッドの向かいに掛けてあった絵だった。鈍い金色の額に入れられた、一枚の油絵。
ユーリの記憶に残る優しい母親の微笑みが、そこにあった。アルバムに残った母の素の笑顔よりも、ぐっと美しく、その微笑みは作品名に決して恥じない気品と我が子を慈しむような優しさがあった。
6年間、ずっと探し求めていたものに違いなかった。
(・・・やっと、やっと会えた―――!)
ユーリは思わず破顔しそうになるのをぐっと堪えた。歓喜に震える指先を握りしめ、冷静を装う。
「これがお客様の指定された絵ですか?」
「きれいな人だろう?私の宝物だ」
「宝物・・、ですか」
「この女性は私の愛した女性なのだよ」
「―――え?」
思いがけない長谷部の言葉に、ユーリは目を張った。そしてさらに長谷部はこう続けた。
「もうこの世にいないがね。・・君に、よく似ている」
「!!」
絶句するユーリをよそに、長谷部は絵を手に取ると、そのまま部屋を出た。
カジノへと戻る道を歩きながら、もはやユーリは感情を隠すことが出来ずにいた。長谷部の後ろを歩いていることで顔を見られないことが幸いだった。眉を寄せて、絵を手に歩く長谷部の後ろから無言でついていくことしかできなかった。
(なんて言った?この男は・・母を、愛していた――!?)
ありえない、としか思えなかった。母親には相思相愛で結ばれた父親がいたのだ。
たとえ、本当にそうだとしても、愛している女性の幸せを奪えるはずがない――!
そんなはずはない、と希望にも似た思いで、ぎゅっと唇を噛んだ。