そうして再び絵を持って長谷部が現れる頃、余計な客を帰したのか、テーブルの周りには数人の客と関係者らしき人間しか残っていなかった。
久保田と時任はその絵を興味深げに目にする。絵画の知識は無いに等しい二人だが、その絵をみて目を丸くした。
その絵の鑑賞価値に感嘆したからという理由ではなく、よく今までバレずに潜り込んでいたな、というユーリに対する驚きからだった。
その絵が、ユーリの探していた絵だと一瞬で分かったのだ。
たとえ事情を知らない者であっても、ユーリを見たことのある人であればすぐ不思議に思うかもしれない、とも。
久保田はちらりと長谷部を見やった。
それはあまりにも、“似すぎている”。
おそらくこの絵は長谷部だけが鑑賞していたものだろう。支配人やスタッフは知らずとも、長谷部は違う。
この絵が身近にいる女性によく似ているということに気づかないはずがない。
長谷部がこの絵を大事にしているというのであれば、余計にである。
つまり、それほど、成長したユーリは、絵の中の母親によく似ていたのだった。
そう思考を巡らし、(なるほどね・・)と、久保田は小さく息を吐いて苦笑した。
しかしユーリは気づきもしなかった。
ユーリの絵を見つめる瞳はまた違った感情が込められていた。生前の美しい母親が笑みを浮かべるその絵を、やっとこの眼で見ることができたのだ。
胸に熱いものがこみ上げ、気を抜けば涙が出そうになる自分を必死に押さえ、同時に先ほどの長谷部の言葉がぐるぐると頭を回り、困惑しながらも何とか冷静を装っていた。
しっかりしなくてはならない。
勝負は一回きりである。
久保田が時任の賭ける目に投げ入れた後、長谷部があっさりと負けを認めるとは思えない。だが、他に客がいる以上、暴挙にでるとも考えにくいが、久保田がスパイだったことはバレてしまうだろう。
勝負がついた後、いかに素早く逃げるかが問題だった。
いよいよ長谷部と時任は向かい合ってテーブルに座り、その中央に久保田とユーリが立った。
時任はカードをアシスタントディーラーのユーリに渡し、掛け金2億を設定した。ユーリはそのまま時任のカードを預かり、もう片方の手には絵を預かった。
あと少しで手に入る、そう思えば自然と手に力が入る。
あとはどこに賭けるかだ。
時任が適当な数字を考えていると、長谷部が思わぬことを口にした。
「さて、これだけの大勝負だ。普通とは少し趣向を変えていこう。そこでだ、ディーラーが投げる前に賭けるのではなくて、投げた後に賭ける、としたらどうだね?」
「は――!?」
時任は思わず目を張った。
久保田の表情は変わらないが、ユーリも驚愕した。
つまり玉を投げ入れてから、時任は久保田の狙った的を当てなければならないのだ。
『こんなことなら賭ける番号を打ち合わせておけばよかった!』と思っても後の祭りである。
戸惑う時任の代わりに口を開いたのは久保田だった。
「・・オーナー、どういうことですかね?」
打ち合わせをしていないのは長谷部も同じだった。どこを狙えなど、久保田は何も聞かされていない。疑問に思うのも普通だった。
「なに、ルール上、ありえないことではない。君の好きなところを狙えばいいのだよ。君が投げた後、私かこの少年が、その的を当てる。当たった方が勝ちだ。どうだ?君にとっても楽しい大勝負だろう?私にとっても都合がいいというわけだ」
長谷部は口元に深い笑みを浮かべて言った。
都合がいいとはよく言ったものだ。長谷部がこんなことを言い出す理由として、久保田と時任がグルだということに感づいたと考えるべきだった。
一方事情の飲み込めない支配人らも唖然としていたが、長谷部の余裕な態度に、久保田と話しはついているのだろうと黙って見守っていた。
久保田も口元に笑みを浮かべていた。
大した余興である。勝負を自分に賭ける気なのか、長谷部もまた根っからのギャンブラーなのかもしれない。
どちらにせよ、長谷部は食えない人物だと思った。
長谷部は久保田の望みを叶えるつもりだという。ぎりぎりの大勝負を楽しみたいという久保田の言葉を。
長谷部の狙いは分からずとも、勝負師の久保田が乗らない手はない。
「それはどーも。好きなところに投げさせてもらいますか。・・それじゃいきましょか」
(----久保ちゃんっ!?)
久保田の態度に、時任は心の中で盛大に叫んでいた。
(いきますかって!どこに賭けるんだよっ!!?)
時任の焦りが伝わったのか、長谷部がこう続けた。
「ぴったり当てようとはしなくとも、色だけでも当たればよしとしようじゃないか。君は黒と赤、どちらが好きかな?」
「・・っ」
子供をあやすような物言いに顔をしかめながらも、2者択一なのはこの際ありがたい。久保田がどちらを選ぶのか、時任は必死に考えていた。
すると突然、久保田は表情を変えることなく、長谷部に「失礼」とだけ声をかけると、胸ポケットからゆっくりとセッタを取り出して火をつけた。
そしてトレードマークのくわえ煙草のまま、時任の目を見て優しく微笑みかけたのだった。
「これ吸わないと運が上がらない気がするんだよねぇ」
ディーラーが客の前で、しかもオーナーを差し置いて、くわえ煙草とはいい度胸である。
周囲は呆気にとられるが、長谷部は特に気にした様子もない。
戸惑いながら、その様子を見ていた時任はハッとした。
ふと、数日前の久保田を思いだしたのだ。
それは、ユーリの持ち物であるルーレットを回しながら、久保田が玉を投げる練習をしていたときのことだった。
「すげぇな!久保ちゃん、プロみてぇ!手品か?」
今玉が入っているのはルージュの「5」。
先ほどから5度連続で投げているが、数字を1から順に入れてみせていた。
「久保田さん、あなた本当に初心者?」
ユーリも久保田の腕前に驚いて訝しげな目を向けた。
もちろん、と頷く久保田の投げた玉は、ノワールの「6」へと入っていた。
「これはね、ちょっとした計算だよ。あとは投げ方の練習をすれば、簡単に入るってわけ」
ユーリは思わずため息をついた。
「あなたみたいな人がいたら、私はすぐクビになっちゃうわ」
「そうでもないよ。これは所詮計算であって、俺が強運だからじゃない。木製の機械なんていつ壊れるか分からないから、もし何かあったらって考えると、その時は神頼みだろーね」
「久保ちゃんが神頼み?」
時任は似合わないとばかりに目を丸くすると
「勘ともいうけどね。あとは、これで運気が上がるのを待つ、かな」
久保田はそう言って、深く煙を吐き出した。
「煙草でかよ?」
時任が呆れたように言うと、ようやく止まったルーレットをのぞき込んだユーリは、「7」にあったボールを取り出して、苦笑しながら言ったのだった。
「あなたには誰の目から見ても十分腕の立つ強運のディーラーだわ」
久保田はセッタを加えたまま、ルーレットを回し、迷うことなくボールを投げ入れると、長谷部に目をやった。
長谷部は先に答えることなく、
「お客様からどうぞ」
そう言って時任を促した。
(神頼み・・か・・)
時任はしばらく考えるようにじっと数字を見つめていたが、覚悟を決めたように賭け番を口にした。
「・・・ノワールだ。数字は・・「8」」
真っ直ぐな瞳を長谷部に向けてそう言うと、長谷部は口元に笑みを浮かべながら、言った。
「では私は、ルージュの「20」にしよう」
緊張に静まり返る中、周囲から息を呑む音が聞こえる。
ぴたりと当てる必要はないが、的の数字が赤か黒か、それで勝負が決まるのである。
カラカラと次第に緩やかになる音に、視線が集中する中、時任の顔に不安は見えなかった。まるで勝つのが当然だというように、堂々と勝負の時を待っていた。
玉の落ちる小さな音が、周囲の静けさのせいか、大きく聞こえる。
数十秒が数分にも感じるその瞬間、長谷部、久保田と時任以外は手に汗握るが、誰もが長谷部の勝利を疑わず、食い入るように見つめていた。
そしてその回転が、確かに動きを止めたとき、彼らは何か信じられないものを見るような、驚愕の表情に変わった。