遠い記憶と君への想い【7】

 


 

長谷部はユーリを盾にして、頭を銃口で突くようにして、ゆっくりと歩いている。

そこは出入り口ではなく、スタッフルームがあるだけの一角なはずだった。長谷部はやはり隠れていたのだろうが、ユーリは出口に向かったはずだというのに、今こうして長谷部に捕まってしまっている。

答えは一つ。どうやらもう一つ地上へと出口があったようである。

時任は舌打ちする思いだった。

「てめぇっ、卑怯モンだな!勝負をフイにしたうえに、人質までとろーってのか!」

「卑怯?グルになってイカサマをする者のことはそう呼ばないのか?」

心外とばかりに目を大きくしてみせた長谷部に、時任は憮然として言い放った。

「それはてめぇも一緒だろーが!言っとくけど、最後のあれは山勘なんだからなっ!」

「ほう?そればすばらしいね。私は、久保田君が本当の味方であれば必ずルージュに入れると思ったのだがね。赤は勝利の色だと言っていただろう?

やはりそうではなかったようで、残念だったよ」

長谷部の言い分に、大げさに肩をすくめたのは久保田だった。

「うーん、やっぱり?でも俺、赤ってあんま好きじゃないんだよねぇ」

それを聞いて時任が納得したように頷いた。

「ああ、久保ちゃんは黒って感じだ」

「そういや時任、何で黒の8にしたの?」

久保田の問いに時任はにやりと笑って見せる。

「こないだ練習してるときにさ、久保ちゃん赤の7までやってたろ?だから次は黒の8じゃないかなと思って。それにイメージ的に久保ちゃんっていったら黒って感じだしさ」

玄人のギャンブラーが聞けば卒倒しかねない大した理由である。とても2億円をかけた大勝負だとは思えない。

それで思った通りに勝ったわけだから、時任こそ真のギャンブラーなのかもしれないのだが。

「しつれいね、どうゆうイメージよ。お先真っ暗って?」

「まぁ、そんなところだな。・・でも、先が真っ黒でも目の前が真っ赤になるよりましだろ?」

その理屈も他人は分かるはずもないが、久保田は言い諭されたように、首を傾げていた。

「うーん、それはそうだけど・・・」

突然始まった二人の世間話だが、あくまで長谷部がユーリに銃口を突きつけ、久保田と時任が為すすべがないという状況は変わらない。

しかし時任は分かっていた。こうしている間に、久保田が何かしら思案を張り巡らせてるうということを。

一方、知る由もないユーリは震える手で絵を握りしめながら、

(こんなときに何余裕こいてんのよ――っ!!)

と叫びたい気持ちでいっぱいだった。

「まったく、おもしろい子達だな」

長谷部はかなり場慣れしているのか、そんな二人を目にしても怒った様子もなく楽しそうに笑みを浮かべてさえいた。

しかし、次の瞬間にはその笑みを消し、カチリと撃鉄を引く音をさせて、ユーリに銃を構えなおすと、同時に久保田と時任は長谷部に鋭く射ぬくような目を向ける。

突然のことにユーリは息を呑み、時任は飛びかからんばかりに身を構え、久保田はユーリの頭越しに長谷部の頭に照準を合わせた。

先ほどとは一変して、その場の空気が張り詰めた。

一触即発の空気のなか、その緊迫感を破ったのは久保田の声だった。

「・・あんた、彼女を撃てる?」

長谷部がぴくりと小さな反応を見せたのを、久保田は見逃さなかった。

「彼女、その絵にそっくりだよね。あんた、とっくに気づいてたくせに、彼女にだまされたフリしてたんでしょ?それって、あんたが彼女を、側に置いておきたかったからじゃないのかなぁ?」

「・・・・・・」

「6年も経てば、女性は変わるからね。特にアメリカ人の父親似だったユーリちゃんは、ここ数年でだんだんとお母さんに似てきたってとこじゃない?あんたはだからこそ余計に手放せなかった」

「・・・・・・」

無表情に黙り込む長谷部に銃を突きつけられたままのユーリは唖然としていた。

訳が分からない、それを口にもできずにいる彼女を代弁してか、時任が口を挟んだ。

「どういうことだよ、久保ちゃん」

「うん、その絵は著名な画家に描かせたものだと聞いてたけど、一般人の肖像画に、それほど価値があるとも思えないからね。それにこの男がコレクションしている絵画は数千万はくだらないものばかりだっていうのに、何よりもその絵を大事にしてるなんて、よほど思い入れがあるものなんだろうなってね、つまり、長谷部はその絵というか、その絵の女性を大切にしてたんじゃないかってこと」

「・・・っな、何よそれ!?」

ユーリはやっとのことで声を出しながら、自分の後ろにいる男の言葉を思い出し、困惑の表情を浮かべていた。

『この女性は私の愛した女性なのだよ』

あの時、長谷部は確かにそう言っていた。

『もうこの世にいない』とも、そして。

『・・君に、よく似ている』とも―――。

「――っ!!」

(本当だったというの!?この男は本当に母を愛していて、私がその娘だと知って、側に置いていた――?)

黙り込んだユーリの後ろで、長谷部はまた低い笑い声をあげていた。

「そうだよ。私は彼女を、ユーリの母親を愛していた。いや、今でも愛している。だが、彼女はすでにあの男のものだった。それでも諦めきれず、何度も彼女に言い寄ったのだが、それも叶わなかった。彼女は奴と結婚し、子供をもうけてしまった。さすがにすっかり吹っ切った私だったが、会社の金に手をつけ新たな事業を踏み出していた私を、奴が攻め寄ったときに、私の想いは爆発したよ」

長谷部は思い出すように目を遠くしながら、淡々と語る。

――なぜ、おまえに分からない!?新たな分野に手を伸ばすための資金として借りただけのこと、なぜそうも私を攻める?

――なぜ、おまえばかりが幸せになる道を選ぶ権利がある?なぜ、おまえには彼女がいる?

「奴は黙っていてやるから、会社を辞めろと私に言ってきた。そこで決心したよ。『分からず屋はおまえの方だ、おまえが出ていけ』とね」

『あなたが私のもとへ来てくれるというのなら、奴のことを助けてもいい』

それは長谷部がユーリの母に言ったことだった。

しかし彼女はあの絵のようには笑ってくれなかったことを思い出して苦笑した。

「彼女はそれでも首を縦に振らなかった。だから私は奴を会社から追い出し、奴の財産を剥ぎ取ってやった。だがそれでも彼女の決心は変わらなかった。それどころか、彼女はそれを自分のせいだと己を責めて・・、ついぞ私を受け入れることなく、ーー自殺した」

長谷部の言葉にユーリは目を剥いた。

「じ、さつ――?!何を?母は、病気で亡くなったのよっ!」

ユーリは母の死に立ち会ってはいない。しかし確かに急な病で亡くなったのだと聞かされていた。

「奴が、おまえの父親がそう言ったのだろう?実際は彼女は首をくくって亡くなったのだ。見当違いに自分を攻めるという自己犠牲の精神でね」

ユーリには思い当たるところがあった。確かに病にしては急すぎる死だと思ったことも確かだった。そうして自殺となれば、辻褄が合うこともあったのだ。

震える声で言った。

「な・・んてことーー!!あ、あなたのせいで、母が!?」

「そうだ。私はそれでも彼女を愛していた。・・その絵は、彼女そのものだった。私を攻めもせず、私を受け入れられなかった罪をあがない、自ら命を絶つという、慈愛に溢れる女神のような女性だった」

淡々とした物言いにも、長谷部は記憶の中の女性を思いだし、わずかに目を細める。この冷徹な男には似合わないほどの穏やかな表情だった。

それは黙って聞いていた久保田と時任にも、おそらくこの男が本当にその女性を愛していたのだろうと思えるほどのものだった。

しかし背を向けているユーリにはそんなことが分かるはずもない。

キッと眉を寄せて、背後の男に殺気を向けて言った。

「――許せないわ。母はあなたのせいで死んで、父は、あなたのせいで、・・・愛する人のことも忘れてしまった!父は・・、母が死んで以来、ずっと記憶を失ってしまったのよ!!母のことも私のことも、自分のことですら一つも思い出せずに――!!」

「−−!」

叫ぶユーリの言葉に目を張ったのは時任だった。父親が入院療養中だとは聞いていたが、記憶喪失だったとは初耳だった。

そして、その病名は時任自身にも他人事でないものである。

黙り込んでいる久保田もじっと何かを考えるように前を見据えていた。

長谷部はしばらく考えるように目を閉じながら、穏やかに口を開く。

「・・そうか、それほどに・・、愛するがゆえに、忘れてしまったというわけか」

「ふざけないで!この絵を見せれば母を思い出してくれるかもしれない。私のことも・・。だから私はっ―」

「それはやめたほうがいい。思い出せば奴は彼女の死も思い出してしまう」

「っ!!あなたに何が分かるのよ!わたしは、わたしは母とは違う。あなたを許さない。たとえあなたが私を殺せなくとも、私はあなたを殺すわ!」

ユーリは強い口調で言い放った。長谷部が奪った幸せな家族は、男の愛憎に歪んだ感情によりもたらされたものだった。それも母親が己を責めて自殺したという事実は男への憎しみをさらに募らせた。しかし憎しみ悲しみに潤む瞳は、かすかに揺らめき、迷いを含んでいるようでもあった。

母はこの男を本当に恨まなかったのか、自分の罪を償うために命を落としたというのか。もしそうであれば、恨みを晴らそうとする自分こそが、母の想いを裏切ってしまうのではないか、と。

強く唇を噛みしめるユーリに、久保田が優しく語りかけた。

「・・ユーリちゃん、その男はあんたを撃てない。今なら、俺がその男を撃てるけど・・、どうする?」

「っ・・・!」

久保田の口調も表情も穏やかだったが、その瞳は真剣だった。

この男を生かすも殺すも自分次第なのだと、厳しい選択を与えたのだ。

母親をめぐる悲しい事実と、この絵を手にするために犠牲にしてきた日々。ユーリは分かっていた。すべてを断ち切るために、決断しなければ、先へは進めないと

大きく開かれた灰色の瞳が、次第に溢れるほどの涙を帯びて青い光を放つ。

ユーリは震える体で、ぎゅっと絵を抱きしめるようにして、久保田を見つめたまま、ゆっくりと口をひらいた。

「・・・・殺して」

そう呟いた瞬間だった。

ユーリには、背後にいた長谷部が咄嗟に銃を久保田に向けたように見えた。が、それよりも早く、久保田は引き金を引いていた。

ドンと一発の銃声のあと、ユーリの背後で人が倒れる音がした。

ユーリのこめかみ、わずか数センチ上にある標的を久保田の銃弾が見事に命中していた。

ユーリは頬を溢れる涙で濡らしながら、ぎゅっと閉じていた目を開くと、

今度は微笑して一言、呟くように言った。

「・・ありがとう」

久保田はそんな彼女に、優しく微笑んだのだった。


 

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