事実はホラーよりも奇なり?【4】
次の瞬間、女は猛烈な速さで時任に襲いかかってきた。
時任は咄嗟に身構えていたが、逃げる隙などない。時任の体は一瞬にして青白い光に包まれてしまう。
「時任!」
膝をつき、だらりと首を垂れる姿はまるで糸が切れた人形のようで、久保田は目を見開く。
ホッとするのもつかの間。その顔は無表情で、視点は定まらずどこかぼんやりとしていた。
いつも視線を合わせれば、真っ直ぐな瞳には分かりやすいほどに意志や感情が感じられた。なのに今の時任の瞳には何の感情も浮かんでいない。
黒い瞳でただじっとこちらを見つめる時任は、まるで別人のようだった。
成仏したとは考えにくいなと久保田は思考を巡らせながら、ふと彼女が”借りる”と言っていたことを思い出して、ある仮定を思い浮かべる。
一歩一歩歩きながら時任の手は自分の制服の上着へとかかっていた。その手で上着をぽいっと脱ぎ捨てていく。
中に着ていた時任のいつものパ―カ―も下のシャツも、次々に脱いではその場に捨てられていった。
そうして久保田の目の前にやってくるころには、もう上半身には何も身に着けておらず、制服のズボンを履いているだけという格好だった。
座り込む久保田に視線を合わせるようにして腰を折った時任を、久保田はじっと見上げた。
見慣れぬ表情や真っ黒な瞳から、ほんの欠片でも時任の存在を探すかのように。
“時任に乗り移った彼女”は妖艶な笑みを浮かべる。
『ねぇ、この姿なら、抱いてくれる?』
時任の声と重なって頭に女の声が響く。
しゃべり方も違うし、雰囲気も全く違う。いつもの時任の欠片もそこには感じられない。
けれど久保田の目の前にいる時任は本物だった。
”中身”は全くの別人でも、身を寄せてくる”体”はまさしく時任のもの。
華奢で適度に締まった体を惜しげもなく晒し、両腕を久保田の首に巻き付けてくる。
黒目がちのつり目がゆっくりと至近距離に近づくのを見返して、久保田は初めて戸惑いの声をあげた。
「・・・わぁ・・・、これはちょっとまずい、かな」
積極的に触れてくるような時任でないだけに、おいしいシチュエ―ションだとそんなことが久保田の頭を占める。
一度も触れることが許されなかった聖域に、今まさに触れてもいいのだと、甘くいざなわれているのだ。
触れたいと、考えたことがなかったわけじゃない。むしろその逆で、相方という立ち位置を逸脱するような衝動を覚えたことは何度もあった。
ほかの誰にも感じたことのなかった人間の欲望というものを誰よりも大事にしたかった相手に感じて、そこでも初めて戸惑いというものを覚えた。
触れたい、抱きしめたい。出来ればそれ以上のこともしてみたい。
自分のことはもともとよく分からなかったけれど、こんなに素直に誰かを欲しいと思うとはさすがの久保田にも予想もつかなかった。
だからこそ戸惑い、見ないふりをした。触れてしまえば最後。おそらく止まらない。
それが時任の意志に反するものであるのならなおさら、自分の欲望から目を逸らすしかなかった。
――--なのに。この状況は一体どういうことだろう。
神様が可哀そうな自分に、チャンスを与えてくれたとでもいうのだろうか。しかしそれにしてはあんまりな状況である。
『さぁ、抱いて。私を愛してくれれば、このままずっと一緒にいられるのよ。痛みも苦しみも感じないわ』
それも幽霊の言い分によるとどうやら時任越しに女を抱くことによって、久保田は苦しまずにあの世に行けるらしい。
最後にいい思いをしながら逝けるというのなら、それはそれで親切なものであるかもしれないが。
『安心して、私はあなたしか連れていかないわ』
「・・・・・」
どうするかなぁ、と久保田は天を仰いだ。
あの世に連れて行かれるうんぬんよりも、問題は目の前の時任だ。
据え膳食わぬはなんとやらと言うが、しかしこの時任は時任であって、時任ではない。
今は時任の意識は見てとれないし、今何をしても覚えていないのかもしれないけれど、もし覚えていたら。
『抵抗しても、殴っても蹴ってもいいけど、傷つくのはこの子よ。ふふ、あなたはもう私を抱くしかないのよ』
「・・・・」
久保田が体勢を入れ替えて時任を押し倒す形になったのだ。女はそのことに満足そうに頬を染めて、うっとりと微笑む。
『さぁ、私の名前を呼んでまこと。ユリエと、呼んでちょうだい』
久保田の唇が時任の唇へと近づく。けれど触れ合うことはなく、時任の耳へとキスが落とされる。
『まこと、私の名前を・・』
甘く耳朶を噛み、柔らかな感触を確かめるように舌を這わせる。
「ん、」と僅かな吐息をつく時任の声を聞きながら、久保田は耳元で囁いた。
―――時任、と。
女の目が大きく見開かれる。久保田は構わずに再び「時任」と名前を呼んだ。
『っ、違うわ、私はユリエよ。ちゃんと私の名前を呼んでちょうだい』
首筋に顔を埋める久保田の頭を、女が強く掻き抱く。久保田は鎖骨へと唇を滑らせてから、女と視線を合わせてはっきりと言い返した。
「それは無理。だって俺が見てるのは”アンタ”じゃないし。こうして触れてるのも、アンタじゃない」
『な、・・なにを』
久保田は動揺したように揺れる瞳を見つめながら、片手でぐっと女の首を掴んだ。
「―――時任、俺を見て」
『くっ、まこと・・っ!』
そうして再び、強くその名前を呼ぶ。
「時任」
ゆらり、と瞳に意志が一瞬見えた。
澄んだ瞳はまさしく久保田の知る時任のもの、その瞳が戸惑ったように久保田を見上げてくる。
「・・くぼ、ちゃ・・?」
「――うん、そうだよ」
「俺っ・・うっ」『・・・まことっ!』
しかしすぐに女の声が割り込んでくる。久保田にはそれが酷く不快に思えた。
驚き見開かれた瞳に、久保田は確かに時任の存在を感じながら、そっと唇を寄せた。
「ん・・・」
ふわりと重なる唇に時任が吐息を漏らし、久保田はうっすらと目を開けた。すると薄く開かれた瞳も、こちらを見ているような気がした。
瞬間、周りの雑音も暗闇もすべてが消えたように思えた。ただ目の前に時任がいる。
普段見せる顔とはまた違っているけれど、それは間違いなく久保田の知る姿。
「ん、・・は・・っ」
「・・時任・・」
角度を変えて深く唇を塞ぐ。息をつく吐息は甘く、その隙間から探りいれた舌で甘美なそれを絡め取り、吸い上げた。
久保田は夢中でその蜜を何度も貪りながら、これであの世に行くのもいいかもしれないと思う。初めて触れた唇は、久保田にそんな想いを抱かせるほどに甘く温かだった。
一瞬にも永遠にも思えるような時間のなかで、優しく慈しむような口づけは続く。
そんな時間に終わりを告げたのは、キンと頭に響いた高い音だった。
『あああああっ』
女の叫び声がビリビリと響きわたり、久保田の体は何か見えない大きな力に弾かれる。
それと同時に青白い光が時任の体から飛び出していく。がくりと力を無くす体を久保田は咄嗟に抱き止めた。
『―――ひどい、酷い酷いわっ!!私の名前を呼んでくれればそれでよかったのに・・っ、まことの代わりになってくれればっ』
本物の恋人ではないことは、とっくに理解していたのだろう。それでも久保田を身代わりにしようとしたのだ。
それほどまでに愛し待ち焦がれる想いとは、どんなものなのだろうか。
苦しげに叫び頭を抱えて泣きわめく女の心情が、今なら久保田にもほんの少し理解できるような気がした。
女が決死の形相でこちらを睨み付け、あたりに暴風と得体の知れない黒い闇のようなものが立ち上る。
耳をつんざくような金切り声が響いた。
『まこと、私と一緒にきてもらうわっ!!』
逃げられそうな手段は考えられなかった。
そもそもここから一歩も動けないのだから、どうしようもない。
久保田は仕方がないかと、小さく息を吐いて覚悟を決めた。
もともと自分のことなどどうでも良かった。
動けなくとも盾ぐらいにはなれる。時任さえ庇えればいいのだ。
「時任・・」
この勝ち気な瞳が見れなくなるのは寂しいけれど。
「元気でね」
くっきりと閉じた瞳を穏やかに見つめて、久保田がそう声にした次の瞬間。
唐突に漆黒の瞳が見開かれ、光を帯びる。
そして一呼吸後、腕の中の人物はしなやかな動きで久保田の前に躍り出ていた。
両手を広げるようにして、動けない久保田の前に飛び出た時任に、黒い闇と女は猛烈な勢いで襲いかかってくる。
「時任!」
ただ、時任が盾になることだけはさせておけなかった。
そのとき久保田を突き動かしたのは、そんな本能だったのかもしれない。
時任は久保田の前に庇い立ちはだかっていたはずなのに、今度は久保田から守られるように抱きしめられていた。
もうだめだと時任が息をのんだ―――――そのとき。
二人を救ったのは、得体の知れない地響きだった。
その瞬間、獣の低い咆哮のような音が空気を引き裂くように響き渡った―――。